井の中で報われない

「報われない」という言葉をタイトルに含んでいますが、これは報われるための方法を書くわけではありません。
ただ、報われない人について書きたいことを見つけました。それについて考えた文章になっています。

報われないと感じたことがある人、今もそうであると感じ続けている人は多いと思います。仕事、趣味、創作、人間関係において、評価されていないと感じている人たちです。
こんなに頑張っているのに、こんなに良いのに、という不満を抱えていると思います。これはつまり、自己評価と他者評価にギャップがあるという話です。
人生をより良い方に進めていこうとすると、これは切っても切れない問題として、僕らの前に立ちはだかるはずです。

では、報われないと感じる人たちとは、報われたい人であるのでしょうか。
中には、報われていない現状を無意識に守っている人もいるのかもしれない、と僕は考えています。

なぜなら、評価されないことが安心を生み出しているからなのです。
誰からも否定的な評価を受け取ることがなければ、頑張っている、良いことをしている、という自己評価が崩れる心配はありません。さらには、もっと評価されるはずだという可能性すら想像できます。
評価されないと嘆く一方で、自分の中に安心を生み出すことにしている人もいるのではないでしょうか。

こういう思考回路ができるのは、自分の中に答えを見出すことにした人なのだと思います。
他者に答えを求めることの不合理さに愛想を尽かして、人生を自己完結できるような考え方を持つようになった人が、報われずともやっていける、むしろ、安心できたりするのだと思います。

さらには、評価されていないところに価値を見つけることさえあると思います。
誰にも理解されていなくても、努力し続けるひたむきさ。これが美徳となり、自己評価をより高め、現状維持を後押しする。報われていない人の中には、こんな構造も作用しているのではないかと思うのです。

この安心には、もちろん代償が存在します。
評価されない安心というのは、同時に成長しない安心でもあるのです。実際に成長していたとしても、人はそれを他者からの評価によって確認することが多いです。そのため、成長したという確かな手応えは残らずに、そんな気がする、で終わってしまうのが、この安心の代償なのです。
加えて、他者からの評価とは、なにも自己評価を下回るものだけではないのです。
もっと素晴らしい価値のあるものだということを、教えてくれることだってあるはずです。

「井の中の蛙大海を知らず」
この言葉の役割とは、蛙に世界の広大さを思い知らせることであります。
では、その蛙の内情を考えてみたことはあるでしょうか。世界を知って、その大海へ飛び込んでいくのでしょうか。それとも、慣れ親しんだ井の中へ戻ってしまうのでしょうか。

どちらの選択肢も、僕には否定できません。
大海へ泳ぎ出せば、魚に追われ、海鳥に啄まれ、蛙はやがて限界を迎えます。伸びた体で海面を漂って、限界までやりきれたことを誇りに思うのでしょう。
井の中で暮らせば、高い充足感を得ることができます。そして、蛙の人生は満たされた良いものとして終えることができるでしょう。

報われない現状を守ることも、同じです。
大海を知るとは、評価されるということでもあります。自分より優れていたり、劣っていたりする存在と出会い、自己評価が揺らぐのです。
そんな場所を避けることで満たされていながら、井の外はどうなっているのだろうか、という後悔の念さえ抱かなければ、これも一つの報われ方なのかもしれません。

もしも心当たりのある方がいるのなら、今一度、井の上に立って選択の機会としてみるのはどうでしょうか。そうして選んだ場所ならば、どこであってもきっと間違いにはならないのでしょう。

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