都会の喧騒だなんて言い出したのは、いったい誰なのだろう。
次の発車を案内する構内放送や、馬鹿丸出しの学生たちの笑い声も、どれも僕には向けられていない。僕の心の落ち着きを奪うようなものは、何一つない。
それは寂しいことかもしれない、ということも思いつかないほど、僕は静けさの中にいる。
だから、静けさを埋めるためにイヤホンで耳を埋める。
僕は朝から昆虫キッズを聴いて、少し得意げになる。きっと今この瞬間にこれを聴いている人間は、他にいないと思うから。しかし、もしいるのだとしたら、それはそれで嬉しい気がする。
そんな風に、僕は柱にもたれかかって電車を待っている。
それにしても、目に入る景色といえばことごとく騒がしい。
この数分の待ち時間にさえ、本を開く人。
通勤時間には見合わない、気合の入った装いの若者。
鞄だけ個性を出しているサラリーマン。
どこに視線を逃しても、そういう人たちが僕の頭の中で騒ぎ立てるのをやめない。
僕はそんな人たちを見ると、つい嘲笑してしまう。そんなことを考えている自分だって、くだらないのだろうけれど。そういうことを考えながら、また誰かを見ている。
ふと、足元に目をやるとカナブンが死んでいた。羽が砕けて、転がっている。
そんなことよりも、ギターを背負った少女から目が離せない。彼女はどこへ向かうのだろう。何をしに行くのだろう。カナブンを踏まないようにだけ気をつけて、電車へ乗り込む。
電車に乗って、着いて、また電車に乗って、帰る。
さて、家に帰った僕は何をしていいのか、いまだによく理解していない。
洗い物や洗濯はしなくちゃいけない。別にしなくてもいいのだけれど、一応しなくちゃいけないということで、する。
したほうがよさそうなことを済ませて、あとは何をしようか。家で一人でいる時間というのは、自分のためにある時間のはずだ。自分の好きにしたらいいのだ。
しかし、それについて考えるのは疲れる。
とりあえず、スマホを眺めて朝の続きとする。誰かから連絡が来るわけではない。名前すら知らない誰かの一部を覗いて、明日には忘れていそうな感情を忙しなく出し入れする。
そんなことが、急につまらなくなる瞬間がある。それで僕は嫌になって、スマホを置いてみた。
こんな染みが、あったかな。
真っ白いはずの壁に、ぼんやりと浮かび上がっている。いつも暗い部屋だったから、いつからあったものなのか、僕はよく知らない。
そこはもともと、補修跡のあった壁だった。隣室とを隔てる壁で、僕が入居してくる前に補修されたのだ。そこだけ、微妙に壁紙の色味が違う。指先でなぞると、正方形に継ぎ接ぎされているのがわかる。
それが、その境界に沿って黒ずんでいる。その中には、何やら模様のような染みがある。
触ってみても、なんともない。本当にただの染みだ。
僕はさっさと、寝支度を整えることにした。
いつものように、僕は寝付きが悪い。
暑かったり、肌寒かったり。ずっと何か考えているようで、急に思い返そうとしてみると、何も出てこない。そして、どれくらい寝付けずにいるのかを考えている。
こういうことには慣れていて、明日の朝にはいつ寝たのかわからないほど、突然に寝ているのだろう。
しかし、今日は何もしていなさすぎる。
少し起きてみよう。一服して、眠くなればそのままソファで目を閉じればいい。そうでなければ、ずっと起きていればいい。
リビングへ足を運びながら、またあの染みが目に入ってきた。
さっきの染みは、もっとぼやけたものだった気がする。それがどこか、人の頭の形のように見える。顔には見えないのに、僕はこれを人の頭のようだと思っている。
黒ずみに囲まれていて、なんだか目に付いてしまうのだ。
煙草に火をつける。往生際が悪くて、まだ染みを眺めている。
静かな暗闇の中で、僕は物音を聞いた。
硬い音が、一度だけ。壁の向こう側からだった。
二度目はなくて、灰皿に煙草を押し付けた。
やっぱり、もう寝ておこう。
意味もなく徹夜するなんて、馬鹿馬鹿しい。どうせ、すぐスマホを手にして眠れなくなるだけだ。あとは、あの染みが気になったりするのだろう。ただの染みなのに。
明日、明るい時間にもう一度見てみよう。
そう思って、ソファへ横になった。
何度目かのアラームを止めて、ついに起きる決心をする。もっと早くに寝ておけばよかったな、といつもどおりに反省して、ソファから起き上がる。
朝は本当に時間の進み方が違って、慌ただしい。もっと落ち着いて、朝食だってフライパンを使って、ちゃんと用意したいのに。外に出るための着替えやら、髪の毛のセットやらを優先して済ませていく。
ああ、そうだ。
そういえば、昨日は不思議なものを見つけたんだった。
片手間に見てみるが、なんだ、普通の染みにしか見えなかった。少し惜しい気持ちで、水を一杯飲み込む。
まだ眠いけれど、扉を開けて外へ出れば、否応なしに今日を生きていく。それがわかっているから、朝は何も考えずにひたすら支度をするべきだ。靴紐を結ぶところまでいけば、あとは流れのままに過ごせばいい。
さあ、ドアノブに手をかける、その前に。
振り返って、目を凝らして染みを見る。別に何も変わらない。そのまま、外へ踏み出す。
駅に着いても、いつもと何も変わらない。そこにいる人やらは違うのだけれど、それを眺めて、考え事をして、というのは何も変わらない。
今日もやけに引っかかる人たちがあふれている。その手に持つ、スマホの画面を覗きたい。一瞬、目が合ったあの人の隣にいるのは、友達なのだろうか。それとも、恋人なのだろうか。あの髪型は最近よく見かける。流行りというやつか。
昨日の染みも、あんな髪型のような輪郭だったら。それは少し面白い。
現実はそうではなかったのだけれど、なんで人の頭のように見えたのだろう。思い出そうとしたけれど、どんな染みだったかなんて覚えていない。記憶にあるのは、今朝見た、なんでもないただの染みだった。
もっとよく見ておけばよかったかな。帰ったら、そうしてみようかな。
そうして、また電車がくる。
玄関を開けて、靴を脱ぐ。顔を上げてみると、今朝と同じ景色の中に、あの染みがある。なんだか、また染みが違って見えるような。
近づいて見ると、うん、少し濃くなっているかもしれない。染みが広がっている、というふうにも思わないけれど、黒い筋が伸びてきているようにも感じる。もともと補修されていたところだから、それが何かぶり返しているのかもしれない。
自分に心当たりがあるわけでもないので、ひとまず写真を撮っておいた。これで、後から問題になっても少しは言い訳のしようがある。使う場面がくるのかは、わからないけれど。
今夜は、すぐに眠れると思う。考えてみれば、昨日はよく寝ていない。それに、ベッドではなく、ソファで寝たのだ。
あとは、目を瞑っていれば寝るはずだ。
しかし、すぐに眠れてしまうというのも、少し寂しい。
そうであるほうが、いいに決まっているのに。そんなことを考えながら、やっぱり早く眠ってしまいたくなる。
僕の就寝前の葛藤が、そこで途切れた。
何かが床に擦れる音がした。
隣の部屋からだった。あまり気には留めないのだけれど、そういえば今までも夜に物音を聞いていた。今のは、椅子か何かを引きずったのか。
僕は今から、寝ようとしている。向こうは、まだ起きているらしい。
この辺りまで考えて、僕は眠っていた。
また、僕は眠たい朝をやっている。
以前と違うのは、あの染みだ。つい見てしまう。タイムラプスのような朝の時間の中で、確かにあの染みを見ている。それはなんだか、昨日と違っているようで、そうとも言えない。写真と見比べるわけではないけれど、何かを探すように見ている。
帰宅してからもそうだった。たまに触れてみたりもする。
そうして何日か過ごしながら、思い出したように写真を撮ってみる。おそらくあまり変化はないのだと思うけれど、念のため、撮るようにしていた。
ある日の夕方、またなんとなく染みを見てみた。
すると、それはあの日のような人の頭の形に見えた。といっても、あの日の染みの形は覚えていない。なんとなく、あの日と同じだと思ってしまった。
こういうのは見れば見るほど、そう思えてくる。いったん、写真を撮っておこうと思って、スマホを構えた。画面越しに、なぜか違和感が残る。
撮った写真を見てみた。
これはなんだろう。ただの黒ずみだった。
改めて染みのほうへ目をやると、まだ人の頭のように見える。俯いているようで、うたた寝しているのか、泣いているのかはよくわからない。どんな人なのかも想像できない。これがなぜだか、写真には写らない。
撮り方を変えたほうが、いいのかもしれない。部屋の電気をつけて、少し離れて撮ってみた。
こっちのほうが、ずいぶんマシだった。なんとなく、僕が見ているように撮れたのだ。
それからは、なるべく明るくして離れて撮るようにした。
いつものように、駅で電車を待っている。そして、ギターを背負った少女を見つける。前も、同じ土曜日だったかな。地下鉄の乗り換えで、彼女は降りていく。僕が知っている彼女は、それだけだった。
彼女が、もしも僕の隣人だったら。
いや、楽器の音なんて聞こえたこともないし、そんなはずはないか。同じ電車に乗るのなら、家から駅までの間に一度くらい見かけていそうだし。
でも、僕の部屋の隣ではどんな人が生活しているのだろう。
しまった、ぼんやりしていた。
足元には、蛾が死んでいる。さっきまで、そこに足を置いていた気がする。
これは朝から、気が滅入る。不自然に靴を地面に擦り付けて、嫌な感触をなかったことにした。その蛾が、もともと死んでいたのか、生きていたのかは考えないことにした。
そして、僕は隣人のことがまだ気になっている。
その日の帰り、少し隣の部屋の扉を見てみた。
表札はなかった。なんでもない扉だった。これ以上、見ていても何も出てこなさそうだった。
おとなしく自分の部屋に入ったはいいものの、今日の染みはなんだか普通だった。
いつもとどこが違うかというと、それはわからない。けれども、何にも見えないただの染みであることが、つまらなかった。
前のほうがよかった。
相変わらず、僕は寝付きが悪くて、今夜もだらだらと目を瞑っている。
すると、また何か音がする。目を開いて、壁のほうを見る。
やっぱり夜型か。今日は、よく音がする。何をしている音かはわからないけれど、何かをしている音だ。
しばらく耳を澄まして、聞いていた。ぼうっとしながら。
焦点を合わせてみると、僕の目は染みを見つめていた。
この染みは、僕のものじゃない。また形が違って見えた気がする。今度は、大きな影が二つ。伸びた黒い筋が、手にも見えた。
充電していたスマホを手繰り寄せて、写真を撮った。これで、5枚目だった。
翌日、染みを確認してから家を出る。
僕はいつもどおり、駅のホームの少し奥、柱にもたれかかりながら電車を待つ。そういえば、昨日踏んでしまった蛾はどうなっているだろう。足元を探すけれど、跡すら見つからない。代わりに名前もわからないような、小さな羽虫が数匹。
動かないから、死んでいるのか。そのうち、風に飛ばされてしまった。もしかしたら、飛んでいっただけかもしれない。
とにかく、昨日の蛾はいなかった。
そのとき、電車がやってきた。これは見送る電車だ。乗車している人と目が合ってしまい、僕はつい目を伏せる。
その人の顔がやけに気になって、扉が閉まるぎりぎりで視線を向けた。すると、思いがけず、扉のガラスに反射する自分を見ていた。顔のあたりが眩しくて、少し見えづらい。
なんだろう、特に何も思うところはないまま、僕はその姿を見送った。
それからも相変わらず、染みはあった。
まったく気にならなくて忘れかける日もあったし、また何かに見えたら写真を撮っていた。写真だとどうしても分かりづらかったので、何に見えたのか、一言だけメモするようになった。
7月29日(水) 18:42
うつ伏せになっている人。
8月2日(日) 01:02
玉のようなものを吐き出す口。
8月14日(金) 23:38
爪の長い生き物。
僕は隣人についても、いまだにどんな人が住んでいるのか知らない。
たまに音がするのだけれど、だいたい23時ごろから何かしている、くらいしか知らない。あの染みについて話してみたいとも思っているのに、姿さえ見たことがない。なんのきっかけもなかった。
朝、家を出る。
少し振り返って、やっぱり隣の部屋には何も見えない。生活の跡が、何も。
イヤホンをつけながら、駅のホームへの階段を上がる。はっぴいえんどにしよう。今日は、空が広く感じるから。
柱にもたれて、足の置き場所を丁寧に確認する。
今日は、彼女はいないみたいだ。というより、いつもより人が少ないのかもしれない。まばらに、人がいるだけだ。スマホを取り出して、スクロールしてみた。いつもと同じような喧騒が流れていた。
手を止めて、足元へ目をやる。ちょっと足をどかしてみたけれど、なんともない。
じいっと見ていると、発車ベルに気づく。少し駆け足で、電車に乗り込んだ。恥ずかしくなって、ずっと扉の外を眺めていた。
僕は帰りに、電車から降りて、また同じ柱の根元を見てみた。
これはカナブンか、色が少し違う気がする。あらぬ方向へねじ曲がった羽は、少し茶ばんでいるようにも見える。光のせいなのか。横腹から何かが漏れている。そこに群がるように、小さな虫がいたように見えたのだけれど、人の波には逆らえなかった。階段を降りながら、イヤホンを外す。
たぶん、蟻がいたのだろうけれど、駅にいるものだったかな。
家の扉を開けようとしたとき、隣から音が聞こえた。いつもとは違って、かさかさとビニールのような音だった。ゴミ捨てにでも行くのか。だとしたら、今、出てくるのではないか。
一瞬考えて、僕は急いで扉を開けて部屋に入った。
玄関で、聞き耳を立てながら、靴を脱ぐのに少しもたついた。あの染みを見る。今日はなんでもない、ただの黒ずみだった。
隣の扉が開く音はしなかった。
今日は、何も気にならない染みのままだ。どんなにこじつけようとしても、何にも見えない。逆に気になってしまう。
風呂場で、鏡に描いてみた。覚えている染みの形を、いくつか。あのメモに残したとおりに、いろんな形を描いてみた。これが、しっくりこない。
8月20日(木) 02:12
縁から縁に、糸を引く液体。
8月17日(月) 20:49
アメーバ?が二匹重なっている。
8月14日(金) 23:38
爪の長い生き物。
ううん、どれも絵になってしまう。あの染みじゃあない。
キャンバスをシャワーで流して、タオルへ手を伸ばす。頭にタオルを巻き付けて、足早に壁へ向かった。
ただの、染みだった。
ドライヤーで髪を乾かして、ベッドに寝転ぶ。スマホを充電器につないで、アルバムを開いてみた。さかのぼってみると、こんなに撮っていたっけ。
四角い画像がずらっと並んで、真っ白な壁ばかりが、いやに目立っている。数えてみると、11枚。それが生活の風景のところどころに、染みついているようだった。
画像を一枚ずつ、開いてみた。
メモに書いてあるように見えなくもないけれど、それぞれを見比べて、何がどう違うのかが言えなかった。撮る位置はどんどんと離れていったし、明るくなっていったと思えば、急に暗闇でフラッシュを焚いたような日もある。そんな撮り方をしたかな、と思いながら、我ながらいい出来だとも思った。
8月17日(月) 23:50
星が空から降ってきた。
どれが星で、どの辺りが空なのかはわからない。ただ、そのときはそう見えたのだろう。自分の考えていたことが今になってわからないというのは、少し興奮する。僕はしばらく、スマホを眺めていた。
隣から音がした。重たい音だった。
いつもより大きな音だったので、ちょっと様子を窺っていた。二度目は、ない。
あと、最初の一枚が残っていた。これだけは、少し小さく見えた。
スマホを枕元に置いて、僕は目を閉じた。
今日も、早く眠れるといいのだけれど。
ああ、また寝不足で一日を始める。昨日、歯を磨くのを忘れていた。どうせ眠らないのなら、歯磨きくらい済ませておいてほしい。苛立ちながら、朝を済ませていく。
朝食の優先順位は低い。電車を降りてから、適当にコンビニで済ませればいい。今日は、かなり時間が危ういのだ。
靴紐は汚いけれど、よしとする。忘れ物はない、はず。とりあえず、スマホと財布は確実に持っている。
ドアノブに手をかける。急がないと。
久しぶりにしっかり走った。肩が落ち着かない。
時間を確認すると、発車時刻の3分前だった。僕は自分で思っているよりも、まだまだ現役のようだ。ただ、この疲れ方はみっともない。少し息を整えようか。
柱の根元を見て、僕はもたれかかる。深呼吸をして、汗が流れていくのを感じる。足元に転がった蛾は、朝の光を受けて、羽が輝いて見える。角度を変えながら、それを眺めている。
群れていたのは、小さなハエのような虫だった。ぴょんと飛びながら蛾の上を歩き回っている。よく見ると、結構いるのだとわかる。
電車が進入してくる音がして、目をやると、彼女が階段を駆け上がってくるのを見つけた。僕よりもひどく息を切らしていた。他にも、夏休みが終わったのか、学生がちらほらと見えた。
僕は蛾の羽の色を数えていて、ただ、電車に遮られてしまい、仕方なく乗り込んだ。
今日は疲れたから、帰りはゆっくりと家まで歩いた。途中、自販機でコーラを買った。飲みながら帰った。
リビングで一息つきながら、煙草を吸っていた。コーヒーの次に、コーラが合うのだ。
そしたら、隣から物音がした。硬い音だった。
音のする方を見ても、真っ白い壁があるだけだった。そういえば、やけに壁が白いかもしれない。ああ、そうか。あの染みがないんだ。
壁に近づいて、指先で正方形の補修跡をなぞってみた。
もうちょっと、見たかったなあ。
翌々日の朝、僕はいつもどおりに駅へ向かう。
階段を上がりながら、イヤホンをつける。少し得意げな気分になる。
柱の根元を見て、僕はもたれかかる。
漂流ノート#5収録
息を吹き込む