どこへだって行ける、という奔放な全能感に浸る。
自分で書いていて、ナルシズムに受け取られる恥ずかしさはあるのですが、至ってシリアスに考えてみたいと思います。
これは特定の場所に限った話ではなく、人生の目的地や社会的な役割などを含めた「どこか」を指しています。
それは選択肢に恵まれた、いわゆる自由そのものであるようですが、僕はいまどこへも行っていません。行けていない、とも言えます。
つまり、どこへでも行けるのだという感覚は、実証されていないものであるのです。
どこへだって行けるというのに、なぜかどこへも行かないのです。
その感覚の真偽を明らかにしようということではありません。真かもしれないし、偽かもしれない。そのどちらともわかっていない状態である、ということです。
僕の全能感とは未検証であることによって、一旦、保たれているのです。
ここで、僕には疑問が浮かぶのです。
仮にどこへでも行けるのだとして、では、僕はどこへ行くべきなのでしょうか。
選択肢が多いことは、必ずしも自由には結びつきません。
多ければ多いほど、他の選択肢を捨てる必要が出てくるからです。他を捨てて、「どこか」を選ぶための根拠が必要になります。
どこへ行けるのか、ではなく、どこへ行くべきなのか。自由に見えても、また違った問題に直面しているのです。
問題とは、他を捨てる決断をしなくてはならないことだけではありません。
捨てた選択は、捨てる前よりも遠のいてしまうかもしれません。さらに、選んだら選んだで、それは苦しい道のりになるかもしれません。
それらはどれも可能性の話であって、実際どうなるかもわからないまま、時間を差し出す必要があります。
全能感に浸っている暇があるのならトライすべきだ、というごもっともそうな意見もあります。しかし、これら選択の代償を考えてみると、僕は安易に頷くこともできないのです。
未練たらしさと惰性のように取られても仕方のない事情から、僕は行使することのない全能感を引きずっているわけなのです。そしてその結果、今後を決定してしまうような選択を避けて、仮の場所に身を置くことになります。
僕はこれまでも、仮の場所であると言いながら、その場に身を置いてきました。
まだ決定的な選択をせずに、可能性を残しておくためです。仮の場所とは、未確定な全能感を守るための場所でもあったのです。
たまにこうして振り返ってみると、僕の可能性とは、この社会のどこにも見当たらないのです。
僕の中では、できたかもしれないことが沢山あって、どこにでも僕の可能性を見出すことはできます。
しかし、やはりそれは何の裏付けもないので、過去を振り返っても可能性の痕跡を見つけることはできません。成功という形はおろか、失敗という形でさえ、なのです。
僕に潜在する可能性は、まだ評価されるものとして、この社会に姿を現してはいないのです。
優劣という安直な評価すらされずに、僕はこのまま埋もれていくのかもしれません。
単純に何も成し得なかった人間と同じように、僕は可能性を孕んだまま、歴史の砂に埋もれていくのかもしれません。
こうして嘆きながらも、なお、身動きは取れません。
それは、僕がこの問題を認識してしまったせいなのでしょう。
何もわからずに手当たり次第を繰り返すことができたなら、そのほうが自由だと言えるのかもしれません。
僕は仮の場所に甘んじていて、裏付けのない全能感を抱え、このまま埋もれていくのかもしれません。こうして言葉にできてしまった以上、何が僕をそこから脱却させるのか、それを考える必要が生まれてしまったのです。自分で選ぶことが難しい以上、外側から選択肢を狭めるような出来事を待つほかありません。
ですから、僕はこうして立ち往生してしまっているわけなのです。
さて、僕の奔放な全能感が向かう先とは、大きく分けて二つです。
一つは先述の通り、それは錯覚のようなもののまま、埋もれてしまう可能性です。これからも何も起こらず、選ばず、捨てず。そんな可能性です。
そしてもう一つは、何か一つだけが現実の中で試されることです。
何か大きな転機が訪れ、僕が積極的になって可能性を検証しにいく。そうであれば、これまでの葛藤にも大きな意味を見出しやすくなるでしょう。
しかし、きっと僕を待つものは些細で受動的なきっかけなのだろうと思います。
このまま埋もれるのか、と足踏みをしている僕は自力ではそこを抜け出せずに、誰かによって選ばれたり、選ばされたり。これまでの葛藤には見合わないほどの小さな理由によって、僕の可能性の一つが試されることになるのでしょう。
もちろん、これがいい結果になる場合もあれば、悪い結果として終わる場合もあります。ただ重要なのはそこではなくて、僕の長年の葛藤が、ほんの数分の出来事によって急に置き去りになるかもしれない、と考えているのです。
僕はいまだに、どこにもいないのです。
行き先を決めずに、仮の場所からこの葛藤を書き残しています。
そして、この文章と共に埋もれていくのかもしれません。
あるいは明日にでも、何の脈絡もないところへ向かっているかもしれません。
そのどちらもが、同じくらいあり得ることのように見えるのです。
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