Leng Junという画家をご存知でしょうか。
僕は絵画には疎いのですが、それでも知っているくらい有名な方です。ハイパーリアリズムという、簡単に言えば、“写真みたいな絵”を描かれています。たしかに、写真展に飾られていれば疑いようが無いほどの精巧さなのです。
そういった写実的な絵画を鑑賞する度に、ふと思うのです。この先に辿り着くものは写真であるのか、と。
限りなく精巧に描いた場合、現実世界をそのままに写し出す写真と区別がつかなくなってしまうのか、と思うのです。
まず絵画という形式をとる以上、写真とは確実に重なり得ない点について考えてみます。
それはやはり、人の手によって創り上げられているか否かという点でしょう。絵画はあくまで人が塗り上げます。写真の場合、被写体の配置や色合いを人が決定することはできますが、それを作品として現すことができるのは、カメラという機械なのです。
そして、人の手が入り込むことによって、“ズレ”が出てきます。それは単に、失敗や巧拙を意味するわけではありません。時間的な“ズレ”と、意思的な“ズレ”が生じるのです。
時間的な“ズレ”とは、時間の経過によって対象や、当人の身体や精神に変化が起こることを指します。また、意思的な“ズレ”とは、当人の意識状態によって、対象の捉え方が変わってくることを指します。
そして、この2つの“ズレ”によって、人の手が加わったものはありのままの形を保つことができないと考えています。
つまり、写真はカメラが捉えた光の情報をそのままに写し出すものですが、絵画は人間というレンズを通して脳内に伝達された、改変後の写像をそのままに描き出したものなのです。
絵を描くということは、架空の一瞬を切り抜くという行為であり、それは画家の描きたいと思ったように改変された世界なのです。
ここに写真との決定的な違いがあり、さらに、どうしたって絵画は写真にはなり得ないという根拠があるのです。
極限まで精巧に描く中に、非現実が紛れ込む。これによって、画家の意思が際立ってこちらに訴えかけてくるのでしょう。そんな仕組みがあるのかもしれない、と考えてみました。
漂流ノート#2収録
息を吹き込む