多分、僕はそちら側に染まりたい人間なのです。
僕の手では汚し得ない、人間という神秘。それを汚したくなる欲情を噛み締めながら、あるがままを退屈に書き連ねるのです。そういうところに美徳を想定することで、何とか僕もその神秘に参加したいと思っています。
こういう書き方は、僕の理性がでしゃばっている書き方です。
理性に忠実になるということは人間的で清いと言うこともできるのですが、そう言ってしまうことに嫌気が差してくる二十代半ばなのです。逆張りと言ってもいいですが、あんまり本能を除け者にするのは良くないんじゃないか、と思えてしまうのです。
恐らくこれは僕の子供時代が患っているのです。
思慮の欠片もない、虚弱な醜い子供でした。人をいたぶることを快として、そこに善悪の判決がもたらされることもないまま大人になりました。善悪など無いとしても、無理に判を押されなければ彷徨うのです。それで、ただ懐疑と自省に苛まれているのが現在の僕なのです。
そうするとやはり、本質的に僕は弱い側の人間であるのでしょう。いわゆる清く正しい人間とは違うはずなのです。自分が正しいのか間違いなのかすら分別がつかないのですから。
弱く、在る。それ以外に在り方も分からないのです。少なくとも、僕自身はそういう結論を持って生きています。
だからこそ弱いものを肯定するし、それを正当化して自己防衛にも努めます。保身を優先しつつ、隙あらばそこから抜け出して強い人間たちと同じ面をしようとも試みます。
そう、強い人間たちとは純文学をやっている人間たちのことでもあります。彼らは人間の在るがままを精緻に把握しているように映るのです。
書く、読むを単なる道具以上に大袈裟に意識している人間というのは、だいたいそんな純文学に陶酔している。僕の目にはそう見えます。
そして、純文学が築く国は僕を拒絶しません。それはあくまで拒絶しないだけで、無関心なのかもしれません。しかし、僕はそれに気が付かないこともできます。
まるで盆踊りのように、やめ時を見失った延々と続く行列に手招きをされている気分です。本当は手招きすらしないのですが、弱い僕を引き付ける甘美な光景なのです。
僕は、それの鼻を折ってやりたい。
姑息に参加しようとする僕を許して、寛大に受け入れようとする得意げな純文学の鼻を。
何というか、僕にしてやれることといえば、そのくらいなのです。
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