時々思うことは、僕の人生は既に破綻しているのではないか、ということです。
二十歳を過ぎる頃にはおおよその生き方というものを決めて、今でもそれが至上の幸福と考えています。ところが、その道を進んだ先に待つのはどう考えても、ただ死ぬということだけです。
どんなに善く生きようが、結局全ての人間と同じようにただ死ぬとするなら、なぜこうも生きようとしてしまいますか。綺麗な服を着て、暖かい人たちに囲まれながら、僕の名前が歴史に刻まれようとも、死んだ人間には関係のないことです。僕がやっていることは、意味のないことなのでしょうか。ここの捻れにおいて、僕は破綻を予感せざるを得ないのです。
生きていくためには、特に積極的に生きようとするにはそれだけ代償を伴います。パンで腹を満たそうとするとき、代金を支払わねばなりません。これと同じく、儚い人生を満たそうとすれば対価が求められるのです。
一見無意味な一生の中で、何かのために犠牲を伴いながら足掻く。この不合理な熱は、僕に限らず誰もが持つものであると思うのです。なぜ人は皆、これを持ち合わせるのか。
もしかすると、この熱がなければ人は死んでしまうのではないでしょうか。
結果として人の一生とは無意味なのかもしれません。それでも、その過程において自ら意味を持たせていくことで、生きていく道を見出すのだと思います。つまり、熱を失くした人にとって、世界は空っぽに見えてしまうのです。そして、この世界のどこにも居場所のなくなった人は死んでしまうのではないでしょうか。
熱のかたちは、人それぞれにあります。
大切な人を想ったり、野望に心を燃やしたり。かたちだけでなく、その表現の仕方も違ってくるでしょう。
そうなると、やり方によっては社会や倫理といった後天的な枠組みから逸脱する場合もあります。多くの人々が、彼らを愛のない人だと罵るかもしれません。
僕はそれらのすべてを肯定するわけではありません。否定もしません。ただ、僕たち生きている人間と同じように、彼らもまた熱に従ったわけだと考えています。
熱に冒され、死へ向かう人たちを見て、胸の奥底からは何か焦げた匂いが漂うのです。
僕の人生はやはり、破綻していたようです。
それでも、熱のままに日々は続くのでしょう。
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