殺意の形跡

これは、『人を殺せる人間』の付録のような文章です。
そちらを読んでからでもいいですし、このまま先にこちらを読んでもらっても構いません。

僕には、人を殺せるということが分からないと思っていました。想像もつかない、と。
しかし、ふと思い出したことがありました。

そういえば、僕は人を殺せたかもしれないのです。

詳細は省かせていただきますが、そのときは命の危険を感じていました。しかもそれは、誰か人の手によって殺されるかもしれない、という危機感でした。
誰かに殺される可能性があると考えたときに、当然のように保身の策を考えました。逃げたり、いなしたり、殺したり。勿論、これはあくまで候補であって、実際にそうできるかどうかはまだ考慮されていないものです。

そんな大掛かりな暴力をしたことのない僕にとって、最も殺されずに済む手段は、相手を殺すことだと思いました。相手が実行に移してから対処するよりも、先に決定的な行動をとるべきだと考えました。
そう判断したとき、殺人に関するありとあらゆるストッパーを消し去るような動きが、脳内にあったのを覚えています。殺人を正当化するというより、生存のためにそれらの抑制を無くしていったのです。
そして、最終的には「殺されてしまう前に、殺す」というシンプルな行動基準だけが頭に残っていました。

つまり、あれは殺意ではありませんでした。

そうではなくて、生存本能によって極限まで余計なものを削ぎ落とされた意識の中で、人を殺す覚悟を固めたのでした。殺してやろうという感情はなくて、自然な選択の結果として頭の中に殺人が残っていたのです。
結局のところ、僕は何もしていません。何事もなく、ただ、殺人に至るまでの思考ルートの形跡だけが僕に残りました。

『人を殺せる人間』で僕が考えていたものと、この経験が同じものなのかは分かりません。やはり実行に移したときにだけ見える、何かがあるのかもしれません。

これについて考えてみることは、パンドラの箱のような危うさがあります。
いやに思考が惹きつけられますが、決して開いてはいけないのでしょう。

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