ミートソーススパゲティ

子供の頃、ミートソーススパゲティが好きでした。
なんで好きだったのか、覚えてはいませんが好きでした。
今となってみれば、子供の頃の嗜好に意味なんてほぼなかったのでしょう。それを裏付けるように、あの頃の食の好みの痕跡は跡形もなく失われています。

食べ物だけではありません。密かに想いを寄せていたOさんのことは頭の片隅にもなくて、今は別の人が隣にいます。大好きな野球にのめり込んだ日々も、もうありません。そんなことばかりです。
あれが好き、これが好きと熱中していた子供時代が嘘のように、今の僕は最近の時間に従って呼吸をしています。
なんの根拠もない当時の”好き”は的外れで、今の僕ならもっと正しい選択ができたのに、という仕方のない考えに辿り着いてしまうのです。

なぜでしょう、これを認めてしまうことを凄く恐ろしく感じてしまうのは。
どう考えたって昔の僕は間違いだらけでした。しかし、間違いを繰り返していた、その時間に対してバツを付けることが恐ろしいのです。
きっと、昔を否定するような判断を導き出している今の僕は、昔という時間の連続の先に立っているからでしょう。過去を否定するとそこからひと繋がりに続く今の自分まで、ドミノ倒しのように瓦解してしまうと思っているのでしょう。
まるでパラドクスのような恐ろしさを、そしてジレンマのようなもどかしさを感じてしまいます。

人は常に、最新の答えというものを持ち合わせているはずです。
こうして書いていることだって、いつかはくだらなく思えてしまうかもしれません。
そうしてコロコロと変わりゆく答えは、やがて真理に辿り着くのでしょうか。運命という、神によって用意された最適解に辿り着くことができるのでしょうか。

神様の代理人を謳う宗教家や、高名な哲学者たち。誰であってもその問いを完全に解消してはくれません。真理や運命といった絶対的な答えがどこにあるのか、そもそも本当に僕らの人生にそれらが用意されているのかを知ることはできません。

誰にも分からない、ということは誰にも否定できないということではないでしょうか。
だとすれば、なんの根拠も無しにこの答えが正解だと、言い張ったってよいのではないでしょうか。たった今、この僕だけが分かりうる真実があるのです。その真実の正当性はさておき、それを盲信することは過去や未来の自分にも否定できません。そうであると信じ切る傲慢さが、真理や運命のようなものをもたらしてくれるのかもしれません。

子供の頃、ミートソーススパゲティが好きでした。
今の僕は、そんなに好きじゃありません。この先、好きになることも多分ありません。
それでも子供の頃、ミートソーススパゲティが好きでした。

漂流ノート#1収録

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