人が人を殺すとは、一体どういうことなのか。
困惑に似たこの疑問が、ある時から僕の頭にこびり付いて離れません。
“死”という概念が絡むと、もうそれは空想の域を出ない話題になってしまいます。なぜなら、ただの一人として、それを経験した人はいないからです。
死後の世界というスピリチュアルなことは置いておいて、死亡とは生命活動の停止を意味します。すべての感覚、思考が遮断され、遮断されたということすら認識しません。盲目を想像するより、遥かに困難な現象です。
そういった、底無しの恐ろしさを了承した上で人を殺せるというのは、これもまた想像を絶するのです。
自分には死など想像し得ない。その恐ろしさを十分に分かっていながら、それを相手に課すということ。誰かの指示で機械的に行なってしまうわけでもなく、恐怖を自覚しながら自らの意志で行なってしまうということ。
これを可能にしてしまう人間の中身こそ、僕には分からないのです。
殺意という感情は、その大小を問わなければ誰にでも経験のあるものだと思います。しかし、そのほとんどが殺人という結果までは求めておらず、もっと手前の段階で解消されていきます。
それでは収まらずに本当に誰かの死を望んでいたとしても、死という概念の恐ろしさが故に、実行には及ばない場合ばかりのはずです。それは相手への同情、取り返しの付かないことをする背徳感、行為に対する代償の大きさ等の理由が考えられます。
このように人を殺すという行為に至るには、高い壁が阻んでいるようです。
その壁を越えていけるほどに、人を動かす何かが潜んでいるのでしょう。ここまで強大なエネルギーが他にありますでしょうか。ときに、自死すらも凌駕する原動力なのかもしれない、というふうにも考えています。
他のいかなる行為においても、人が人を殺すときより大きな決意はないのかもしれません。というより、人間はこれ以上に大きな決意を抱くことはないのでしょう。
死が誰も経験のないことなのだとしたら、最も経験の少ないこととは、この決意なのだと思います。
ここまで考えてみても、やはりその実態については全くもって分かりません。きっと、最も大きな決意がなければ届かないほど、人間の奥深くに潜んでいるものなのでしょう。
もしこの問いに対して新たな気付きがあれば、また書いてみようと思います。
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