カタルシスに逃げる

人は生きているだけで、あまりにも多くの困難と向き合わなければいけません。

死という、全生物共通の一番大きな困難を抱えながら、日々の細やかな困難にも取り組んでいかなければならないのです。この茨の道は人として生きていく以上、避けられない道なのです。

ときに、誰かにとって対処し難い、高い壁が現れることもあるでしょう。
能力的な問題、社会的な問題によって、とても乗り越えられないような壁が立ちはだかるのです。困難に対する悲しみや怒り、恐怖といった不快感を持ったまま、八方塞がりになるわけです。
では、人はこの状態からどのように脱却するのでしょうか。

その答えの一つは、感情をストレスとして一時的にしまい込むことです。

もしも、泣けない、怒れない、ぶつかれない、逃れられないのなら。
そうやって高い壁を越えようとはせずに、その不快感を持ち歩きながら脇道へ逸れていくこともできるのです。困難を打破することを諦めて、何事もなかったかのようにやり過ごすことで、また歩き出すことができます。その代わりに、湧き出た不快感をストレスとして溜め込んでおくのです。
ストレスとは、不快感を一時的に別の場所に逃してやるメモリの役割を果たすということになります。

人はこのメモリを、カタルシスによって整理する術を持っています。

古くからある手法で、悲劇を鑑賞することで心の浄化をもたらす、という効果があります。
困難を解消することで、不快を取り除くのではありません。それとは全く別のところで、メモリから不快感を解き放つことによって、擬似的に困難を越えていくことができるのです。

しかし、このやり方にも欠点はあります。それは、根本的な解決にはなり得ないということです。
これはあくまで、メモリに溜めておいた不快感を発散するための術です。これによって自分自身や、自分を取り巻く環境が変わるわけではありません。つまり、また大きな困難に直面したとき、未だそれを乗り越えてゆくことはできないままなのです。
この事実に気づいたとき、人は人の無力さを痛感するのです。

この構造を理解した上で、気を付けなければいけないことが二つあります。

まず、カタルシスは現状こそ解決しませんが、それは前進を意味しないわけではありません。
困難に正直にぶつかっていった結果、傷つき、壊れてしまうこともあります。そうでなくとも、ひどく消耗してしまうのならば、いっそのこと逃げてしまうほうが得策なこともあります。
これは敗北ではないのです。生活を進めるための有効な選択の一つなのです。

そして、そのカタルシスを誰かに押し付けられてはならないのです。
悲劇に始まり、その有用性から人々はこぞってカタルシスを求めたことでしょう。人が集まれば、やがて商品となって、その目的で用意されるものになっていきます。今となっては広告のあちらこちらに、それが遍在しています。
生活の中で、都度飛び込んでくるカタルシスを摂取していれば、何かに気に病む必要がなくなってくるのでしょう。10秒弱のインスタントカタルシスに泣き、ついさっきの不幸は薄れつつあるのです。

しかし、その涙は本当にそこに捨て置いてよかったのでしょうか。
たしかに、どうにもできないことはあります。けれど、乗り越えていける壁さえも逃げてしまうのは、いや、逃げられる道へと誘導されてしまうのは、人にとって不健全なのではないでしょうか。
その涙は、目の前の困難に向き合うためのものではなかったのでしょうか。

カタルシスは、逃げ道です。
どこにも行けなくなってしまった人を、明日へ向かわせるための逃げ道です。

逃げ道だからこそ、自分の足で踏み込んでいくべきなのです。

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