僕はこれまで倫理や価値観を中心に、なぜすべきか、すべきでないのか、ということを何度か記事にしてきました。
『人を殺せる人間』では、殺人という罪について、『説明付きの世界』では、人生の解釈をどうしていくか、そういうようなことを書いてきました。
ここで一つ、気づきがありました。僕は常々、こうすべきだという倫理道徳や社会通念に対して疑問を投じているのです。
本当にそうなのか、という反骨心のようなものが潜在している表れなのだと思います。だからといって、頭ごなしに否定するわけではなく、自分なりの理解を探求しようという心意気は評価できると思います。こうやって人は文明人としてのスタートラインに立つのかもしれません。
そして僕は、文明人としての道を今まさに歩もうとしています。
何をすべきか、という人間に推奨される新しく適切な指針を模索し始めたのです。
順を追って書いていきます。
まず、これまで人間が獲得してきたものは、何をした方が良くて、何をしたらいけないという指示書きでした。人のために役に立つことをしたり、懸命に努力したりする方がいい。人を殺したり、盗みを働いたりしたらいけない。
ここには誰もが納得できる、なぜ?は書かれていません。あるとすれば、それぞれが納得するために用意された理由です。人々は納得を求めることが少なくありませんから。僕もそうです。
本当の意味での理由を挙げるなら、その方が社会を保つのに都合がいいからでしょう。つまり、結果が理由になってしまっているのです。
しかし、この理由は指示書きの存在証明までしか果たしません。そこからさらに、個人が従うべき絶対的な証明にはならないのです。
では、もっともらしい理由を立てて、人間に指示書きを頒布できなかったのはなぜでしょう。単純な話で、正当化する理由が見当たらなかったのでしょう。
宗教や哲学にそれらしいことが載っている場合もありますが、誰でも等しく解を出せる普遍的な説明はありません。こう考えるべきだという思想、これが今の自分が持つ考えよりも整理されて納得しやすいものであれば、人はその答えに乗り換えるのでしょう。そうやって、人によって異なる理由を提示するほか、証明のしようがないのです。
しかし、それらは先述のとおり、それぞれの理由に過ぎません。普遍的で絶対的な説明でないのなら、いつしかまた乗り換えることを否定できないのです。
つまり、僕たちは人生について答えを既にいくつか持っているものの、それを導き出す正当な公式を持ち合わせていないのです。
暫定的な公式の用意はありますが、完全に証明されたものではなく、変数によっては必ずしも正解を導くとは限りません。
ですから、僕が今まであれこれ書いていたのは自分都合に磨き上げた公式でありました。人間の誰もが暫定的に選択してきたのですから、その思考自体は決して悪いことなどではありません。無意味でもありません。
しかし、もう一歩進んでみるとしたら、僕は何を考えるべきか。そして思いあたったのが、より新しく適切な指針の模索であったのです。
人々が現に獲得してきたのは、どう生きるべきか、指示書きの方でした。そして、それはもちろん不変的な内容ではないはずです。なぜなら、その目的は社会の安定に帰結するからであり、それは時代の変化に従わざるを得ません。
殺人などの人類における禁忌のような例は大袈裟ですが、人と違うことはしないように、という今となっては古いと言われそうな意識の変化は、実際に肌で感じていることだと思います。むしろ、人と異なりましょうというのが現代の風潮ではありませんか。これは、指示書きの内容が改編された実例の一つでしょう。
このように、これから人は何をして、もしくは何をしないで生きるべきか、について考えてみることが僕の次なる目的です。
暫定的な思考も引き続き、収集します。しかし、これが効くのは過去・現在に限られています。
未来の指示書きはどうなっていくのか、これがただの予測に終わるか、常識となり得るか。風止場を通して、記録を残していく宣言でした。
風を残す