昔の僕は、“店”に入ることができないほど内向的な性格でした。
ファストフード店や本屋、美容室など、店員さんとやり取りしてサービスを購入するという一連の流れがとても難しいことだったのです。
これは内気だからという簡単な理由で片付けられることではありませんでした。世間知らず、気にしい、臆病。店に入るには、あまりにも障害が多かったのです。
そういう体験にすらならなかった体験から、モバイルオーダーという仕組みは革新的だと感じます。店と客の間にある隔たりの多くを取り払ってくれました。
店員さんに声をかけることへの抵抗はもう無くなりましたが、それでも、気にすることはあります。忙しそうだな、ここから呼んで聞こえるかな、そういう気掛かりもモバイルオーダーには存在しません。
僕個人と店員さんとの間についての懸念に限らず、連れの注文を待つだとか、他のお客さんへの配慮だとか、周辺との関係についても気にすることが減りました。
他人同士が同じ瞬間に同じ用件へ意識を向ける、そんな意識の同期にかかる手間が省けたわけです。あのシステムは明確に僕を楽にさせてくれました。
ところが、同期が省かれたことで、別のものまで一緒に減っていったようなのです。
フードを注文カゴに入れながら、あのトッピングはあるかな、サイズ変更できたらしたいかもな、ということを考えます。ですが、画面に表示された中には見つけることができません。
そういったときに、まあいいか、と諦めることがあるのです。本当に必要だとは思っていないことなので、気に留めることもありません。
しかし、わざわざ呼んで確認するほどでもないことを、口頭注文であれば聞いていたのかな、とも思うのです。口頭注文なら、注文のためにすでに始まっている同期へ、その一言を乗せるだけで済みました。
僕はモバイルオーダーという仕組みの中で、こういった些細な一言も失っていました。
人同士で注文のために同期する過程が省かれたおかげで、たった一言だけのために、改めて同期を始めなければならなくなりました。その瞬間、本当に言う必要があるのか、と一言の必要性が審判にかけられるのです。
そうすると、ふるいにかけられて消えていく言葉がある一方で、それでも残る言葉も出てきます。
恋人が明日の天気を聞いてくることがあります。
調べればわかること、聞くまでもないはずのことでも、わざわざ僕に聞くのです。はたしてこれは、明日の天気という情報自体が重要なのでしょうか。そうだとしても、少なくともスマホという便利な道具を差し置いて、僕に聞くという判断がそこにあるのです。
便利さによって省けたはずの一言が、それでも発せられるのならば、“僕”に向けるという意図が以前よりもはっきりと残った一言になるのかもしれません。
人に声をかけるまでの手間は、便利さが解決してくれます。しかし、店員さんにどうやって声をかけようかと悩んでいた僕が、今では声をかける必要があるのかを悩んでいるのです。
息を吹き込む