第一章
張り詰めた濃緑に、白が薄く延びてくる。
ブナの枝を伝う露の音が聞こえてくるような、静寂が佇む森である。
飢えた狼は、その中を歩いていた。
口から垂れた舌には、唾液が滴っている。若い草を踏み倒しながら、鼻先を低くして進む。湿った土には、わずかに猪の蹄痕が残っていた。それを辿るように、ゆっくりと傾斜を下ってゆく。狩りに出る四頭は、保っていた距離を崩さない。
木々を抜ける風に糞の匂いが混じり、狼は顔を上げる。前を歩く年長の雄狼も、忙しなく首を動かしているようだ。揃って立ち止まるなか、年長の雌狼が一点を見つめる。それから、四頭は一頭の獣のように、下の小川を目指した。
アカシカが若葉を食べていた。体の大きな雌が一頭、それより小柄な雌雄が一頭ずつ。木々が開けて少し明るくなったところに、三頭がいた。その足元の小川が流れる先には、狼たちが這い寄っていた。
下流のほうから、石の転がる音がした。大きな雌のアカシカが頭を上げて、少し見つめる。
両者は一斉に森を駆け出した。
枝が狼の額をかすめる。勢いのままに繰り出す前脚が泥に沈む。少し前を走る年長の二頭の荒くなった息遣いを聞きながら、必死に駆ける。左右に揺れる小さなアカシカの臀部が、徐々に近くなる。
今にもというところで、視界に蹄が向かってくるのを見た。足を滑らせた一頭のアカシカが、後脚を大きく振ったのだ。前を走っていた二頭は立ち止まり、並走していたはずの雌狼はいつの間にか距離を取っていた。
高く振られた後脚は狼の額を擦ったが、そのまま狼は噛み付いた。アカシカは全身を折り曲げるように激しく、飛び跳ねて暴れた。狼の顎は力み、血と唾液が混じって散る。空と木々の景色が入り乱れて、激しく首が揺られる。
アカシカの動きが鈍くなってきて、視界の端では年長の二頭も首元、臀部へ噛み付いていた。口元からは同じように血が滴り、泥まみれの体で抑え込んでいた。
雌狼が腹部へ噛み付き、ゆっくりとアカシカは倒れ込む。力なく鳴いている。首を振ったりはするが、そのたびに年長の雄狼が顎の力を強める。そうしているうちに、アカシカの真っ黒な瞳は森のどこか一点を見つめたまま、瞬きをしなくなった。
森はいっそう明るくなっていく。狼の毛皮についた泥も、乾き始めていた。
狼たちは倒れたアカシカを取り囲んでいる。赤く汚れた口を突っ込み、肉を噛んでいる。
年長の雌狼の熱くなった体が、狼に少し触れた。それに気付いた狼はアカシカの背中側へ回り込んで、皮を食いちぎる。隣では雌狼が顔を覗かせていた。二頭は一つの穴へ口を入れて、食事を摂った。
腹が満ちたものから横になった。口元を何度も舌で舐めている。早くに食事を終えたものは、既にまぶたを閉じているようだ。
カラスが跳ねながら、少し近づいてくる。まだ肉を噛んでいる雌狼だけが、それを気にしている。
しんとした森の中には血の匂いが行き渡り、藪を揺らす音が集まってくる。森の奥は闇が深くてよく見通せないが、アカシカの残骸は生き物たちを引きつけていた。
狼たちは湿っぽい傾斜を慎重に登っていく。見慣れた道ではあるが、大きな枝や倒木が多くなっている。地形もわずかに変わっているようだったが、それでも先頭は迷うことなく帰路を進んだ。
狩場から戻るときは、いつも沢に寄っていた。そこで水を飲む。さらにもう少し進むと、少し大きな白い岩のある、日当たりの良い場所へ出る。さっき食べたアカシカくらいの大きさだろうか。ここにはよく他の動物の匂いが残っている。年長の二頭は少し速度を落とすのだが、ただ通り過ぎる。狼だけが、白い岩に体を擦り付ける。先に行った二頭は気にすることなく、雌狼も一瞥だけして歩いていく。
少し遅れて狼が、急ぎ足でついていく。
浅い窪地に辿り着く。後ろを歩いていた狼が覗くと、二頭の子狼が年長の雄狼に戯れている。顔を近づけて、執拗に匂いを確認している。年長の雄狼がさっきの食事を吐き戻すと、子狼たちは必死にそれを貪る。地面に吐き出された食事を、余すことなく平らげる。そして、名残惜しそうに口元を舐めている。
六頭の群れはここで休息をとる。年長の二頭は、子狼たちと身を寄せて横になる。大きな毛皮で、小さな体を包んでいる。すぐ傍で、もう二頭も横になった。狼の額に傷を見つけて、雌狼は舐めてやった。狼は目を閉じたまま、じっとしていた。
それから陽は傾き、狼たちはまばらに目を開けていく。それでもまだ、微睡みの余韻に浸りながら休息の姿勢を崩さない。
ところが、雌狼が落ち着かない。首を伸ばして、暗くなりつつある森を見回している。やがては唸り声を喉の奥から震わせ、ようやく他の狼たちも気が付く。
立ち上がると、鼻につく煙臭さがある。
煙に混じって、汗や革、異質な何かの匂いが流れてくる。嫌な匂いを嗅ぎつけた狼たちは耳を立て、鼻先をそちらへ向けていた。
窪地から群れが飛び出していく。毛皮には小枝や小さな虫が付着したままであったが、気にする素振りもなく、先を急いでいく。
一瞬、狼はまだ明るいところが残っているのに気が付く。木々がなくなって、よく踏みならされた道に影が動く。狼は静止して、影を見つめる。
大きな荷物を背負った男は、木々の隙間から覗く獣の視線には気が付いていなかった。仕事の帰り道で、腰に据えた使い込まれた斧を撫でている。足元を注意深く見ながら、土にまみれた重い靴で枝を踏んでいる。
男は遠くから細く甲高い音を聞いた。反射的にそちらへ首が回る。少し見つめたあと、男は鳥の名前をいくつか口にしながら、足早にその場を去っていった。
暗闇に飲まれ、月明かりも届かない。沢の音が漂う。
群れはモミの倒木の根元に行き着いていた。若木やシダが覆い、根返りして土のえぐれた窪地を見つけたのだ。身を低くかがめて、それぞれがまた休息の姿勢をとる。
遠くにキツネの匂いがある。アカシカの血の匂いがまだ口に残っている。狼は背中に雌狼の息遣いを感じながら、眠りにつく。
それから、森は夏になっていた。
ブナは葉を青々しく繁らせている。昇ったばかりの朝陽に、小虫も舞っている。
群れは藪に身を潜めて、そこを休息場所としていた。そのうち、落ち着きのない子狼が一頭、藪を抜け出した。続いてもう一頭の子狼が駆け出し、日当たりの良い場所で動き回る。地面を蹴る前脚がもたついて、跳ねるようになりながら互いを追う。
狼は眠らずに、それを見ていた。
少し長い指を舐める。針葉が爪の間に挟まっていた。前脚を噛んだり、地面を掘ったりしている。気が付いた雌狼が身を寄せてきて、指に鼻を近づけてくる。狼は雌狼の鼻先を軽く噛んで、振り払った。
一週間ほどで、群れは藪の休息域を後にした。
その日も二頭は残り、四頭が狩りに出た。子狼は既によく走っていたが、狩りには同行しない。
以前、根城にしていた倒木を通り越して、傾斜のある狩場へと向かう。馴染みの道であった。
しばらくして、年長の二頭が軽く飛ぶ。倒木の表皮は朽ち始めていて、雌狼が乗り越えると、樹皮が捲れていた。狼も続く。倒木に前脚を擦って、樹皮が飛んだ。着地を間違えた狼は、体重を前脚で受け止めきれずに顎を地面に打ってしまった。
雌狼が少し戻ってくるが、狼はすぐに起き上がって歩く。雌狼はその少し後ろをついて歩いた。
またある日、四頭はノロジカを追っていた。
年長の二頭が追いやり、噛み付く。続いて残りの二頭も噛み付き、抑え込む。もう動かなくなった獲物を、何度も強く噛む。念入りに急所を噛んだ年長の雌狼が獲物を離してから、狼たちは食事を始める。
順番に噛み付いていく。場所が悪かったか、狼はなかなか皮を裂けなかった。前脚でノロジカを抑えて、力づくで引っ張る。隣にいる雌狼が牙を突き立てて、皮は裂けた。雌狼はすかさず肉に食らいつく。それを待ってから、狼は自分の分を引きちぎった。
たかる蝿に首を震わせながら、狼は咀嚼を繰り返していた。
子狼を残してきた場所へ戻ると、それぞれ日陰に横になった。
年長の雄狼は後脚を痛めているようで、気にして舐めている。その周りで、子狼は吠えて戯れる。
もう一頭の子狼が、狼の方へ寄ってきた。耳や脚を噛んでいる。狼は構わずに、指を舐めていた。子狼はその様子を見つめて、舐めている指を何度も嗅いだ。そのうち狼は眠ってしまい、子狼も年長の雄の傍へいって眠った。
森の色が暗くなり、強い雨が枝葉を打った。響き渡る轟音が群れを叩き起こした。
飛び起きる雌狼に続いて、次々と慌て始める。日差しを凌いでいた葉からは、川のように雨水が流れている。雨を打つ音だけが、どこまでも続いている。
毛皮を寄せ合って、雨を避ける。狼も雌狼に体を寄せた。濡れた背中が冷たくて、何度も体勢を変えながら震えている。これに耐えかねた雌狼は他のものと体を寄せにいき、狼もそこへ加わることにした。胴を滴る雨水には、抜けた体毛が流れている。群れの仲間の体温を感じながら、それが泥に混じっていくのを見ていた。
群れはただじっと雨に耐えていた。
連日の雨天を越えて、森はまた静かな夜を迎える。虫と鳥の音だけが響く。
群れはようやく穏やかな時間にありついた。月光の差し込む岩場に横たわり、そこで狼だけが眠らずにいた。
横になっては起き上がり、すぐにまた横になる。何度も繰り返している。狼の行動は、雌狼を起こしてしまうほどであった。雌狼は匂いを嗅ぎながら、少し近づく。狼も雌狼の前脚を嗅いで、舐める。
狼は楽な体勢を見つけて、落ち着く。それからは微動だにもしなかった。雌狼はしばらく狼の耳元を舐めていた。
昼食の客が一斉に引いていき、ペトルの宿は片付けに追われていた。
客室の管理だけであれば、ペトルとその妻、娘の三人で切り盛りできていたのだ。それを二年前に二階建てへと増築し、酒場として一階を開放したものだから、一家は寝る間も惜しんで働き詰めとなった。
ただし、今年の春からは若い娘を数人雇いだした。酒場専用に人手を増やしたのだ。この給仕係たちが客には好評で、宿は余計に賑わいを見せることとなった。
忙しなく清掃仕事に励む給仕の娘を横に、女は気怠さを顔に出しながら食器を洗っていた。洗い物を乱雑に水に浸けて、厨房を抜ける。給仕の一人が、聞こえるように呟く。
「あら、宿屋の娘は随分と手際がいいのね。きっといい嫁になれるわ。」
「カトリナだって、十分じゃない。あなたの旦那は素敵な人よ。」
女は振り返ることなく、大きな声で返した。宿の軒下で荷台を漁っていた行商人が、何事かと窓から顔を見せている。
「また、いらしてね。」
行商人に愛想を見せて、女は颯爽と宿を出ていった。
宿を構えるフラシン村は森と街道の接続地点になっており、小さな村ながら人々の往来がある。林業従事者や行商人がこの村を訪れては、ペトルの宿屋に寄っていくのだ。
女はその中を一人で抜けていく。人の流れの中には、酒場で見知った顔もある。そんな顔を避けるように、外れの道を使って森に向かっていた。手には何も持たず、歩き慣れた様子で鼻歌混じりに進む。
森に差し掛かった途端、大きな暗闇が女を迎え入れる。午後三時頃にも関わらず、足元に注意しなければすぐに道を間違えてしまいそうなほどだった。
踏みならされた林業道を辿って、女は森の奥へと入っていく。濃い樹冠から降る木漏れ日を手で触れてみる。森の涼しさのなかで、手の甲が少しずつ温かくなっていく。
視界の奥の方で何かが動いた。女が正体を探すと、木の枝にリスがいた。手には何かを抱えているが、よく見えない。女は少し大股になるが、その途端にリスは逃げ出してしまった。
次の暇つぶしを探しながら、女は当てもなく森を進んだ。
群れから少し離れて、狼と雌狼は水を飲んでいた。
狼は水を飲むのに苦労していて、短い舌を懸命に出し入れしている。先に飲み終えた雌狼は、岩場に上がって休んでいた。
立ち上がった雌狼が、周囲を確認している。それに気が付いた狼も水から口を離す。汗と煙の匂いが森の奥から流れてくる。それに知らない匂いも混じっていた。
だんだんと強くなる匂いに、雌狼は後退りする。狼の方を気にしながら、今にでも駆け出す体勢でいる。
女は水の流れる音を聞く。そこにはよく動物が水を飲みに来るので、今日も何かお目にかかれないかと期待していた。
水場より少し高くなったところまで歩いていき、木々の隙間から覗いてみる。毛皮が見えた。女は、しめたと思った。見慣れない体毛に心が躍っていた。
ところが、すぐにその正体は身を翻して森の奥へと駆けていってしまった。その後ろ姿は狼であった。女は胸の鼓動が早まるのを感じていた。まさか狼を目撃するとは思ってもいなかったのだ。
興奮も束の間、緊張が走る。もう一頭、まだそこに残って、こちらを見つめている。女は息を殺した。もっと見ていたい欲求と、今すぐ走って逃げても追いつかれるに決まっているという冷静な判断が、女をその場に縛り付けていた。
野生の狼を見るのは初めてではなかったが、対面してみると迫力というものが違った。
しかし、この狼は体が弱いのか、毛皮が立派とは言えず、体のところどころに違和感も残る。目を凝らしてみてもよく分からないが、印象として何かが他と違う気がする。あの額にあるのは傷だろうか、模様なのだろうか。病気か、それとも珍しい個体なのか。なぜ逃げ出さないのか。
もしかすると何か特別な狼なのかもしれない、そう期待して一歩を踏み出すと、呆気なく狼は逃げ出してしまった。その後ろ姿を名残惜しく見つめて、しばらくしてから女はその場を後にした。
帰り道、頭上から漏れる光は弱くなっていた。もう少し動かないでいれば、まだ狼を見ていられたのかと考える。どこか違和感の残るあの姿を、忘れないように何度も頭に思い浮かべて、来た道をそのまま引き返していった。
フラシンには明かりが点いていた。
森から引き上げてくる荷車や、街道からやってくる馬車が目に入る。それらはきっとほとんどが宿へ向かっていて、女は戻るのが急に億劫に感じた。
宿に戻ると、ペトルが不機嫌そうに一瞥する。
「ろくに手伝いもせずに、抜け出したそうだな。さっさと洗い場へ行きなさい。」
女は客で賑わうテーブルを見渡して、返事をする。
「ごめんなさい。でも、帰ってきたら拭き上げて、それで終わりだと思っていたの。だから、水に浸けている間にお客さんの見送りにでも行こうかと思って。」
そう女が言い終わるより前に、ペトルは二階へ上がっていった。
「看板娘は遅れて登場かい。酒がまだ来ないんだ。持ってきてくれないか。」
「あら、ニコラエ。もう結構飲んでるんじゃないかしら。次で最後よ。」
女は酒を持って、ニコラエと呼んだ男の元へいく。椅子の下には、犬が伏せていた。少し汚れているが、しっかりとした体付きだ。
「ここら辺にいるのとはちょっと違うのね。この子は狩りに連れていくのかしら。」
酒を受け取った男は、犬を撫でながら答える。
「ああ、先週買ってね。こいつは鼻がよく利くらしい。早く役に立ってほしいものだね。」
女は屈んで、犬の頭を撫でる。そして、あの狼を思い出しながら、感触を想像する。指の生え方や、脚と胴などもよく見て、やっぱり変な狼だったと考える。
「ちゃんとニコラエの役に立つのよ。あなたは立派な猟犬になれるわ。」
微笑みかけて、女は洗い場へと向かった。給仕係たちの目線を通り過ぎ、溜まっていた食器を片付ける。頭の中では、明日は何が見れるかと想像を膨らませていた。
森の奥を見つめていた狼は、しばらく様子を窺った後、雌狼の逃げた方へ駆けていった。
少し離れたところで雌狼は周囲を警戒していた。合流した二頭は、群れの元へと戻っていく。
それから数日、狼には獲物の皮を引きちぎることが難しくなっていた。
代わりに雌狼が裂いたところから食った。肉を食うにも、前脚を上手く使わないといけなかったので時間がかかった。雌狼がそこへ口を押しやると、狼は譲るしかなかった。狼の体は少しずつ痩せていった。
日に日に、その変化は体へ現れていく。
体を覆っていた毛が腹の方から抜け落ちる。冷えた夜の空気を避けるように、群れの間に挟まって寝るようになった。一頭の子狼だけは狼の隣で寝ようとはせず、場所を変えて寝ていた。
狩りでも次第に遅れが顕著になり、獲物を追うことはほとんどできなくなってしまった。今では、雌狼の後ろを追うのに精一杯である。
八月に入って、酷暑が続く。
狩人や木こりが森へ入っていく季節である。女もまた、逃げるように森へ向かっていた。
あれからというもの、野生動物を見かけても退屈であった。またあの日のように、興奮と緊張に支配された時間を探していたのだ。
その足取りは迷うことなく、あの水場を目指していた。
女は運がよかった。狼の群れを遠くに見つける。
といっても、藪を揺らして逃げていく音に気がついて、その姿を微かに捉えただけであった。群れが完全に見えなくなってから、辺りを見回す。近くに動物の気配は無い。
群れがいた場所へと歩いていく。周辺には足跡がくっきりと残っていた。おそらく、五頭くらいだったろうか。いくつもの痕跡を一つずつ確かめていく。
女が斜面の下の方を覗こうとした途端、葉が擦れ合う音がした。驚いて見ると、一頭の狼が斜面を転げ落ちたのか、枝に引っ掛かっていた。その額には傷があった。
女は、自分が興奮していることを感じる。腰布で手汗を拭き取る。目の前にいる狼は、明らかに普通ではない。何度も思い出したあの姿とは、異なっているようだった。
腹部や脚の毛は抜け落ちて、痩せ細っている。それだけではない。鼻面は短く、耳の形も丸みを帯びている。前脚に生えた長い指は、女が知る狼とはまるで違っている。
何より女に衝撃を与えたのは、目であった。狼と目が合った一瞬、白目が見えた気がした。ぎょろりとした瞳の回転が、なんとも不気味に感じられたのだ。
女はその異様さに、目が離せなかった。無意識のうちに、足を踏み出していた。
斜面の石につまずいて、女は体勢を崩す。咄嗟に近くの木へ手を掛ける。枝を掴んで、ゆっくりと立て直した。我に返るように振り向くと、もう狼の姿はなかった。下には折れた木の枝と倒れた草がある。
逃げ出したのか、はたまたこちらを襲おうと身を隠しているのか。女は慎重に後退りして、周辺を見回す。すると、凄まじい速さで吠える声が近づいてくる。女にはどうすることもできなかった。荒々しい息遣いと共に、男の声が聞こえる。
「なんだい、ペトルのとこのお嬢ちゃんか。どうしたってこんな森の中に。」
女は力が抜けたように、その場にへたり込んだ。犬が首筋を舐めてくる。
「よかった、狼に食べられる覚悟までするところだったわ。まだ結婚もしていないのに。本当に怖かったわ。」
「それじゃあ、俺と結婚してくれるのかい。」
女は不安を掻き消すように笑った。気が緩むと涙が漏れそうであった。
「やっぱり。あなたはいい猟犬になるわ。」
女は服についた汚れを手で払い、一人で宿へ帰る。森に入り込みすぎた、と考えながら、さっき見た生き物を思い返す。その表情には、笑みが浮かんでいた。
週末、女は頭を抱えていた。
どうにかして、客が残した煮込みの皿から羊肉を持ち出したいのだ。洗い場だと都合が悪い。ここに運ばれる皿には、骨以外残っていない。手癖の悪い給仕係の誰かがつまんでいるに違いないのだ。
女は、ここに来たばかりの最年少に目をつけた。
「ちょっとあなた。」
背の低い給仕係が後ろを振り返った後、困惑した様子で歩み寄る。
「あなた、ちょっとお願いがあるの。最後に五人くらいの旅のお方たちがいらしたでしょう。あそこの席に羊肉が残ってなかったかしら。取ってきてほしいのよ。無ければ、他の席でも構わないわ。とにかく、羊肉の残った皿を持ってきてちょうだい。怪しまれたら、だめよ。」
早口に、周りを気にしながら告げる。給仕係は黙って頷いた。
十数分経ったが、皿は運ばれてこない。この時、女は初めてまともに洗い仕事をしていた。身を乗り出して客席の様子を窺おうとするが、よく見えない。誰かに漏らしているかもしれない。こんなことがまた父に知れたら、当分は森へ行かせてもらえないだろう。いっそのことバレてでもいいから、自分で行くべきだったか。女は力強く皿を擦る。
「ごめんなさい。他の用事を言い付けられまして。でも、ほんの少しですけど、これでいいですか。あとはもう手を付けられてしまっていて。」
なんと、こんなにも幼い子供のような新入りが仕事を果たすとは。この働きぶりは父によく伝えてやろう。女は新入りの頭を撫でてやった。
「誰にも悟られていないのね。あとはこの洗い物だけやってくれれば、それだけで十分よ。」
女は朝から準備を進めていた。今日のメニューに羊肉が入っていることを知って、それを持ち出して森へ行くためであった。
洗い場の高窓を通れるように、内と外に足場を用意していた。つっかえるといけないので、腰布も着替える用意がある。
布に羊肉を包んで、洗い場を抜け出した。人目のつかないように、雑木林の中を通って森まで歩く。頭の中には、三日前のあの光景でいっぱいだった。
午後四時、群れは食事を終えていたが、狼は満たされていなかった。
獲物から肉を取ることはおろか、生肉を飲み込むのも時間がかかった。牙がうまく食い込まない。そのうち群れは獲物を後にする。口に含むだけ含んで、歩きながら咀嚼していた。
狼が十分に食えていないことに、群れが合わせることはない。周りが休んでいる間も、狼は虫や地面に落ちた木の実やらを口にしていた。吐き出してしまうものもあったが、匂いを嗅いで、また口にした。
何か自分にでも食えるものはないか。地面を嗅ぎ回っていると、嗅ぎ覚えのある匂いがあった。それに、血の匂いは消えているが、脂の匂いもする。狩りなどできる体ではないが、匂いに釣られて歩き出していた。
雌狼もこの匂いに気が付く。狼が行くのを見て、後をつける。しかし、群れの目が届かないところまで来て、踵を返してしまった。狼は一度振り返り、そして、匂いを追った。
女と狼は、太陽が照らす白岩越しにお互いを見つける。互いに薄暗さの中からは出てこない。見つめ合ったまま、時間を奪われたように息を呑んでいる。
女には、狼が自分の存在を承知でここに来たように思えた。しかし、自分を獲物として見ているのかどうかだけは分からなかった。
それを知るために、女は前へ出た。久しぶりに浴びる太陽のように、視界が真っ白になりそうだった。さっきまで見ていた森の奥は、より暗くなっている。薄らと狼の姿を確かめながら、歩み寄る。
布から羊肉を取り出し、白岩の横に置いた。少し離れてから、舌を鳴らしてみる。手を鳴らしたりもした。
狼にはそのどれもが聞こえていたが、木陰から出られなかった。まともに狩りをしなくなった狼は、他の動物との接触を避けるようになっていたのだ。
しかし、地面に落ちているあの肉は食いたい。なんとか隙を見て、しかし、走ることもままならない。狼はその場に留まることしかできなかった。
女は少し待ってから、さらに距離を取った。地面に置いた肉もよく見えなかったが、数分ほどして、狼の姿が現れた。白岩のあたりまできて、おそらく肉を食っている。女は頬を赤く染めて、掴んでいた木の皮が抉れるほど昂っていた。
狼が去った後、様子を見にいく。骨に残っていた肉が食われていた。食べかすが散らかっており、うまく食えなかったのだろう。
女はその場に布を捨てて、急いで宿へ帰った。
夜の酒場営業の準備が始まっている。洗い場に侵入すると、洗い物はきちんと済んでいた。清掃までされていて、内の足場が退かされていたため、高窓から降りるときに足を挫いてしまった。そんなことは気にもせず、女はご機嫌な表情であの給仕係を探して、硬貨を二枚くれてやった。給仕係は満更でもない顔をして、それを受け取った。
その日以降、狼は何度か同じ匂いを見つけては探しに出た。
徐々に肉の量は増えて、細切れに食べやすくもなっていた。夢中で肉を食ううちに、あの異質な匂いが近づいていた。しかし、肉を置いていく生き物が攻撃してくる素振りはない。
「牙がないのね。それじゃあ食べづらいでしょう。」
「あなた、指が五本あるわ。狼じゃなかったのかしら。」
「毛が生えてこないのね。病気かしら。痛くはないの。」
なにやら鳴いていたが、狼は気にしなかった。肉を食い終われば、すぐに立ち去った。
往復を繰り返すうちに、子狼が吠えてくるようになった。狼も吠え返して、横になる。年長の雌狼は狼に触れると、匂いを嗅いで距離を取った。狼は雌狼の横へいくが、雌狼も体が触れるのは許さなかった。
狼は飢えを凌ぐために肉を食いに行き、戻って来ては群れの中で眠るという生活を続けていた。
また狼が肉を食っていると、首元に触れる感触があった。
狼は肉を咥えながら唸る。しかし、次の一手が狼にはない。牙も爪も、目の前の生き物を狩るための何一つもなかった。
唸っていると、額に感触が移る。どうやらこれは攻撃ではないらしい。たまに前脚を引っ張られて噛みつこうとはするが、狼はこの生き物からの接触に慣れていった。
女はいつもより時間をかけて森へ出向く。
ぼろぼろの服を着て、頭巾を被る。そして、全身に炭を塗る。この前、森でニコラエに見つかってしまったのだ。一度目は助かったものの、二度目は大きなお世話である。犬の鼻の誤魔化し方を知っているだなんて、カトリナも役に立つな、と感心した。
今日は大掛かりな目的があった。
この森は林業労働者がよく通る。作業場までは森を長いこと抜けていく必要があるので、山小屋を建ててそこから通う者もいる。持ち主が休みの間は誰も寄りつかない場所だ。
昨年、ゲオルゲという男が山小屋を建てた。女はそこへ行ったことがあるし、彼が不在の時でもたまに訪れていた。今年に入ってから、ゲオルゲはまだフラシン村へ来ていない。理由はさておき、人目を避けるには絶好の場所である。
女は、そこに狼を連れ込もうと考えていた。
慣れた手つきで狼に肉を食わせる。いつもと違うのは、小さい肉を与える度に女は歩いていくということだ。狼は一度立ち止まるが、肉を置くと寄ってくる。女はそれを繰り返した。
白岩の辺りまで来て、傾斜を上がった先に山小屋はある。あと少しのところで女はもどかしさを感じている。狼がしきりに後方を確認して、なかなか歩き出さない。
どうしたのかと肉を持って、狼に近づく。すると、狼は後退りした。ここまでは順調にきたのに。女は苛立ち始めていた。
狼の後ろの方をよく見ると、藪陰に獣の姿が見える。なるほど、あれも狼だろう。
「あなたもお腹が空いてるの。よかったら、一緒にどうかしら。」
女が呼びかけると、その狼は音を立てて逃げ出してしまった。ここまでついてきた狼も立ち上がったが、口元に肉を押しやるとすぐに座り込んで食べていた。
古い林業道を少し逸れて、五分ほどのところに山小屋が見えてきた。
周囲には草が伸びていて、古くなった薪が散らばっている。小窓には苔も見える。先に掃除でもしておくんだった、とぼやきながら引き戸を開けて、狼を山小屋に迎え入れた。
山小屋に入った狼は辺りを嗅いでまわった。異質な匂いがそこかしこから嗅ぎとれるのだ。粗い木製の台に敷かれた布を引っ張ったり、空き瓶をひっくり返したりしている。
「お気に召したかしら。何を探しているか分からないけれど、残念ながら何も出てきやしないわ。」
女は早速、狼のあちこちを触り出す。口の中、前脚、後脚、耳の付け根、尻尾。狼は唸り声をあげて逃げようとするが、女の差し出す肉を前にすると大人しくなった。
「やっぱり、あなたの瞳ってなんだか犬とかとは違うのね。あたしはこっちの方が好きよ。」
狼はまだこの空間に慣れない様子であった。一向に落ち着かず、女は観察に苦労していた。
「それにしても、ひどく汚れているのね。毛皮はどこに置いてきてしまったの。」
狼の露出した肌には、泥や血の汚れが目立つ。
「ちょっとお利口にしているのよ。」
女は小屋の隅に転がっていた桶を手に取る。林業道の方へ下っていき、沢で水を汲む。頭巾を外して炭を洗い落としていたが、小窓から狼が逃げるかもしれないと思い、急いで山小屋へ戻った。
不安を感じながら、戸を開けてみる。すると、狼は腰掛けの脚を噛んでいた。
「お利口にしなさいって言ったでしょう。」
女は濡れた頭巾を手に、狼の体を拭き始める。狼はこれがなかなかに嫌らしい。女の方も濡れながら、丁寧に汚れを落としていった。
狼はそこそこ綺麗になったように見えるが、身震いしている。女は寝床にあった布を被せてやった。それから、古い炉に古い薪をくべて火をつけようとした。苦戦している女の後ろでは、狼が布を噛んでいる。女はそれを見て笑い、掛け直してやる。狼はまた布を振り落とすが、女は炉で暖を取ることを急いだ。
小さな炎を前にして、女は狼を呼んだ。
「こちらへおいで、狼さん。」
もう肉はなかったが、狼は女の方を見て、ゆっくりと近づいた。女は狼を撫でた。
「こうして見ると、やっぱり狼には見えないわ。」
嬉しそうに狼の頭に手を滑らせている。
「ルプショル、なんてどうかしら。ずっと呼びやすくていいわ。」
「ねえ、ルプショル。」
狼は顔を上げる。女は狼と目が合って微笑む。
「そう、あなたのことよ。」
女は狼に話を続けたが、狼は小屋中をうろついていた。
炉の前で目が覚める。女は少し慌てたように周囲を見渡す。
寝床の脇に古いシャツや布が重なっていた。そこで狼は眠っていた。
「ルプショル、おはよう。」
横になっていた狼は重たそうなまぶたを少し上げて、また眠ってしまった。
「そろそろお腹が空いてきたでしょう。私も、もう帰らなきゃいけないの。ルプショルもお家に帰りなさいな。」
まだ布の上でうずくまっている狼を、女は半ば強引に持ち上げる。痩せている体は見かけよりも重くて、女はよろついた。前脚を上げたまま壁に放られた狼は、二足の体勢のまま動けなくなっている。後脚を震わせている。
女が手伝ってやり、狼を二足のまま扉まで運ぶ。女が手を離すと、狼は四足のぎこちない歩き方で山小屋から離れていった。
「ルプショル、次もここに来たらご飯あげるからね。またここに来るのよ。」
狼の後を歩きながら、笑顔でそう叫んだ。
狼は山小屋の近くを徘徊するようになり、古い林業道には妙な獣が出る、と口に出す人間もいた。女はそれについてよく聞こうとはせず、不自然なほどに無関心を表していた。
女は食料をくすねては、山小屋へ向かう。新入りの給仕は思った以上に器用な娘で、この秘密の関係が他の者に知られることはなかった。ペトルもあの日以降、何か言ってくることはなかった。
山小屋に着く前には、匂いを嗅ぎつけた狼が姿を現す。その歩き方はもはや、狼の真似と言った方が適切であった。山小屋の中で触れてみると、肉球はほとんど無くなっている。長い指は一本だけ、他の指と離れて内側へ生えている。女は匙を持たせてみるが、狼は掴むことができない。口に咥えてみるが、すぐに放ってしまった。
「ねえ、ルプショル。ちょっと大人しくしていてよ。」
女はしわだらけのシャツを見せる。狼は噛もうとする。女は制しながら、狼の前脚に袖を通した。
狼は落ち着かない様子でいたが、ボタンを閉めてやると、そのうちそれを受け入れた。
狼は纏った布を振り払う術がなく、そのまま群れへと戻る。
その日はいつにも増して、他の狼たちが匂いを嗅ぎにくる。噛み付いて布を引きちぎろうとするが、狼が身を引く。結局、ほつれた布を身に付けたまま、狼は群れの中で眠ることとなる。もう狼と身を寄せて眠るものはいなかった。
この後、狩りの時間になっても狼だけは同行しない。食事も、狼だけが別の物を食べる。休息の時間だけ、狼は群れの中で過ごしていた。
狼を山小屋に連れ込むのは、今日で五度目である。
いつものように、狼が先に女を見つける。女もそれに気が付き、パンを持って歩み寄る。目の前まで近づいたところで、狼の頭が女の視線の高さまで上がってくる。女は驚いて、パンを落としてしまった。
狼は前脚を女の肩にかけ、立ち上がっていたのだ。女は慎重に後退りする。狼もそれに合わせて、小刻みに前進する。
山小屋に着いた頃には、女は片手だけ貸してやり、それで狼は歩いていた。女は手を叩いて喜び、狼の前脚を握る。狼はされるがままであったが、女が強く手を揺さぶるので、重心を失って転んでしまった。
女は汚れたシャツを取り替えてやった。
狼は嫌がる素振りを見せない。匂いを嗅いだ後、自分が寝床にしている部屋の端へ行き、何度も転がっていた。女は、寝転ぶ狼の後ろから手を回した。
「ルプショル。あなたは、私に出会って変わったのよ。そうでしょ、ルプショル。」
狼は動くのを止める。そして、低く唸る。
女は少し黙っていたが、すぐにまた口を開く。
「ねえ、今あなた自分の名前を喋ったの。本当に、そうでしょう。もう一回ルプショル、って言ってごらん。ねえ。」
狼は、また低く唸る。
狼は後ろから力任せに顔を掴まれる。引っ張られるがままに首を振ると、女が視界を覆うように顔を寄せる。狼が顔を背けると、また女の顔が追ってくる。
朝になると、女は散歩に狼を連れ出した。
女が片手を添えてやりながら、狼は二足で歩き出す。手を離すと、すぐにつまずく。起こしてやりながら、そのうち自力で数歩、進めるようになっていた。
「覚えてるかしら。ここでよくご飯食べていたのよね。」
白岩の横に座り込み、女は一方的に喋り続けていた。狼は横になっている。岩に背中を擦ろうとして女に止められてからは、じっと動かないでいる。
太陽も上がってきて、女はそろそろ暑くなってきた。ふと狼を見ると、藪の方を見つめている。視線の方を辿ると、狼がもう一頭いた。
「お迎えかしら。私にはお迎えが来ないのにね。」
藪から覗いていた狼は、女の視線に気が付いて距離を取った。つられるように、狼も藪の方へ歩き出す。
「ルプショル。」
強い口調で女が叫ぶ。狼は立ち止まり、振り向く。続けて、さっきよりは弱ったような声で、また女が叫ぶ。
「ルプショル。私はまだ帰らないわ。」
狼は立ち上がり、ゆっくりと女の方へ歩いた。振り返った時には、藪の中は獣一匹見当たらなかった。
数日経ち、狼は服を着ている。以前ほど無理をせずとも、すんなりと袖を通せた。
山小屋の寝床が気に入ったのか、女がいなくても山小屋で寝ることが増える。狼の浮き出ていた骨は見えなくなり、獣臭さも次第に薄れて、女はおおいに喜んだ。
「ルプショル。手で食べちゃあだめよ。」
狼は女を見る。女は匙を持つ手をぐいと見せつけ、それから、狼の前脚に匙を押し当てる。狼は食べづらそうに啜っているが、匙を落とすことが減っていた。
食事を終えると、一緒に横になる。女は面白がって鼻の頭を擦り合わせるが、あまりにも近い距離で狼の瞳を見ることになる。狼は女の匂いを確かめた後、口元を舐めた。
夜中に女は目が覚める。狼が転んだらしい。空き瓶が割れて、後脚に傷ができている。
「ルプショル、どうしたの。」
狼が振り向く。女は近づいて、後脚を強く握りながらゆっくりと話す。
「ルプショル。い、た、い。痛い。これ。い、た、い。」
狼は唸りながら脚を引く。女は敷いていた布を引き裂き、処置をしてやって、また一緒に眠りについた。途中、狼は何度も女の顔を舐めたので、女は満足に眠ることができなかった。しかし、起きるたびに微笑みかけ、そして、唇を重ねた。
また朝が訪れる。
狼は女の身に付けている布を咥える。そして、手で掴む。女は軽く抱擁してから、肩を払う。
「お利口にして、待っててね。ね、待ってて。」
狼は立ち尽くす。女はフラシンへ帰る。言い訳を考えながら、口角を上げている。
狼は待っている。
山小屋の中で、女が残したパンを齧る。たまに外へ出て、匂いを探してみる。近くに獣の匂いはない。微かに遠吠えが聞こえる。傷が痛んで、壁にもたれる。少し吠えてみてから、狼は山小屋へ戻った。小屋からは、狼の唸り声が繰り返し漏れていた。
引き戸の前に立ち、女もこの音を聞く。
「来たわよ、ルプショル。お腹でも空いたのかしら。」
狼は喉を鳴らしながら、女へ歩み寄る。
「そうね、ごめんなさい。まさか、ルプショルがこんなに甘えん坊だなんてね。」
狼に抱きつかれて、女は笑った。狼の背中を二度さすり、昼食の準備に取り掛かる。
「今日は久しぶりに、大きいお肉を持ってきたからね。少し待ってね。」
狼は椅子の上で匙を握ったまま、シャツについた汚れを舐めていた。
一枚の布を被り、温かいところを探りながら触れ合う。女と狼は目を閉じたまま、お互いを確かめる。狼は、女のしていたことを真似てみた。小窓から漏れた月が、シャツを照らした。
「お利口にしてるのよ。すぐ戻るわ。」
女は山小屋を後にする。
「まー、て、ね。」
女は振り返る。
「だめよ、ついてきちゃあ。」
狼は手を振った。女もそれに応えた。
女はまたやって来る。狼もそれを出迎える。
女が教えながら、二人で野菜を和える。狼は口にするのを嫌がるが、女が押しやる。衣類を脱いで、沢で洗い、そのまま寝床に横たわる。
朝がくれば、女はまた出ていく。吠える狼の手を握り、女は出ていく。
女がもう振り返らないことを確認すると、狼は山小屋へ戻った。
狼は一眠りしてから、シャツに袖を通し、山小屋を出る。赤く実った果実をむしり取り、食べながら歩いていた。たまに女を呼びながら、行き場もなく歩いた。
沢で体を洗い、水を掬って飲む。水面を見つめて、また女を呼んでみた。
それから、狼は歩き出す。山小屋へは続かない、狼の匂いもしない方へ向かって、女が残していったパンを片手に、のろのろと歩き続けた。
第二章
うろに体を押し込み、夜を眠って過ごそうとする。
少し経っただけで、体が痛む。羽虫が気になって、何度も体勢を変える。狼はうろから這い出して、森の暗闇を彷徨った。足の擦り傷が、歩くほどに痛みを増していく。
岩場に辿り着き、横になる。藪を適当にむしって、敷いてみる。仰向けになってみたり、腕を頭の下に置いてみたりもした。
結局、狼はパンを齧りながら、月を見ていた。他に見るものがなかった。太陽が明るくするまで、ずっとパンを齧っていた。
狼は整えられた道を選んで歩くことにした。藪や雑木林を抜けていくより、ずっと楽だった。道中、何人かの男とすれ違う。ただ通り過ぎるだけの者もいれば、話しかけてくる者もいた。狼は立ち止まるが、目を合わせようとはしない。渡されたものは受け取り、向こうがその場を離れてから、また歩き出した。
日も暮れる頃、狼は煙の匂いを嗅いだ。よろつきながら、匂いを目指す。
分け与えられた塩漬けの肉を舐めながら、ひたすら歩いた。迂回しながら木々を抜けると、久しぶりの香りがした。転がるように坂を駆け降りると、簡素な小屋がある。肉を噛みながら、様子を窺った。全く動きはなく、匂いの元を探すため、狼は小屋へ歩いていった。
扉の前まで来ると、何か擦る音が聞こえる。中に、誰かの気配を察した。狼は扉の前で立ち往生している。窓から中を覗くのにためらい、行ったり来たりをしているうちに扉が開いた。
狼は驚き、腰が引ける。老人が顔を出し、顔に皺を作って問いかける。
「お前さん、どこのもんだ。旅人さんか。生憎だが、ベッドは一つしかないんでね。」
狼は老人を見つめて、瞬きを繰り返す。すぐに立ち上がって、逃げ出したかった。しかし、足がもたついて体を起こすことができなかった。
「そんなに驚くこともないだろう。そっちから訪ねてきたんだ。名前くらい名乗りなさい。」
狼は、その場から逃げ出すことを諦める。四つん這いで老人に這い寄り、ズボンの裾を握った。老人は咄嗟にそれを振り払い、少し狼を見つめてから口を開く。
「腹が空いているなら、入りなさい。それ以外に俺がしてあげられることは、何もない。」
狼は老人に手招かれて、小屋の中へと入っていった。
老人は椀を二つ出してきて、それぞれにスープを注いだ。黒パンを半分に切り、片方を狼の方へ置く。狼を椅子に座るように促してから、自分をヴァシレと名乗った。
「それで、お前はなんだい。」
狼はヴァシレをちらちらと見ながら、スープを口に運んだ。
「お前の名だよ。まさか、名前もないんじゃあるまいね。」
ヴァシレは狼を指差しながら、強調するように話した。狼はその姿に女を重ねる。匙を持つ手を止めて、狼も口を開く。
「……ル、プショル。」
ヴァシレは呆気に取られた表情で黙っていたが、スープに視線を落として話を進める。
「それじゃあまるで子供だな。ルプでいい。」
食事を終えると、ヴァシレはゆっくりと椅子から立ち上がる。机に手をかけながら、狼の体を舐めるように見ていた。狼はどうすればいいか分からずに、椀を舐めとっている。
「やい、ルプ。飯を食ったんだ。働かなければ、道理に合わない。そこの端材をまとめて、戸の前に出してこい。木屑も綺麗にするんだ。」
指差した方を見ると、椅子がある。作り途中なのかは分からない。狼が知っている椅子とは、ずいぶん形が違っていた。
椅子を眺める狼を前に、ヴァシレが手本を見せてやる。狼も続いて、木の板材やらを抱えるようにして持つ。戸の前で腕を広げると、軽い音を立てながら端材が散らばる。ヴァシレに促され、一つ一つ拾い上げて、一か所にまとめた。
箒の使い方も教わる。狼は頷くこともなく、ただヴァシレの指示するように動いた。木工作業と休憩ができるだけの小屋を掃き終えるのに、一時間はかかった。
狼が箒を置く頃には、ヴァシレは安楽椅子に座って目を閉じていた。
ヴァシレが起きるまで、狼は座って待っていた。
その間にも何度か戸を開けて、周りを見渡してみた。見覚えのあるものが一つもない朝の景色である。少し下った先に、馬がいる。木でできた大きなものを引いていて、それが恐ろしく見えた。
「帰るのかい。」
狼は驚いて振り向く。ヴァシレは朝食の準備に取り掛かろうとしている。
「それが斧。それは板。これは水。それから、これが火。」
ヴァシレの指の先を必死に追いかける。斧を手に取って、匂いを嗅ぐ。色々な持ち方を試しながら、ヴァシレのように口を動かしてみる。ヴァシレは薄切りのパンに肉を挟んで手渡してやる。
「ここにいるんなら、覚えなくちゃいけない。お前は子供じゃないからな。ただで飯が食える奴なんていないんだ。」
「ヴァ、シレ。……パン。」
ヴァシレは相槌を打ちながら、パンを頬張る。狼もそれを食べながら、小屋の中の物を一つずつ呼んでいった。
狼は両腕を板に当てて、ヴァシレの動作をよく見ている。
鉋を動かすたびに、板から何かが出てくる。つまんで食おうとしたところを、ヴァシレに叱られた。
「触ってみろ。」
狼が板の上に手を滑らせると、確かにさっきまで自分が抑えていたところとは感触が違っていた。狼はこの感触を気に入り、鉋をかけていないところと交互に触った。
「ちょっとやってみろ。」
見よう見真似で鉋を持ってみる。板に押し当て、動かしてみるがヴァシレのようにはいかない。力を込めると動かなくなり、さらに力を込めてみた。ヴァシレが鉋を取り上げると、板材には抉れたような跡が残っていた。
「力ばっかじゃ、いけねえよ。頭を使うことも覚えな。」
ヴァシレが頭を指差す。狼は頭をさすってみた。
仕上がった椅子を持って、ヴァシレは小屋を後にした。
「今日の仕事は終わりだ。夜飯はそこにある。肉だ。お前はこの小屋の中で寝ろ。俺は家で寝るからな。すぐ隣だ。そこにいるから、何かあったら来い。」
何度も指を差しながら、狼が頷くのを確認して出ていった。急に狼は疲労を感じる。特に、指には痛みもある。その場に座り込み、膝を抱えた。
気が付くと、辺りは暗くなっている。肉のことを思い出して、手掴みで食べた。
隣の家から、ヴァシレの咳が聞こえてきた。木の軋む音も聞こえてくる。ヴァシレの真似をして、安楽椅子に座ってみた。狼は止まない物音を聞きながら、すんなりと眠りについた。
ヴァシレは朝やってきて、夕方まで一緒に働いてから、隣の家に戻る。
狼は食事と寝床をもらう代わりに、仕事を覚えてヴァシレの手伝いをした。
あっという間に毎日が過ぎていく。葉から緑色が抜け始めている。朝には冷たい風が吹くようになっていた。その頃には、ヴァシレが任せる仕事は大体こなすことができるようになった。必要な道具があれば、要求することもできる。小屋の中の物は、ほとんど名前が言えるようになっていた。
ある時、ヴァシレが家へ戻ろうとして狼が呼び止めた。
「ヴァシレ。髪、長い。」
顔にかかった髪を指先でつまみながら、ヴァシレの返事を待っている。
「そうか、鋏の使い方も教えてやらないとな。そこで待ってろ。」
ヴァシレは家に戻っていく。鋏というものを想像しながら、狼は頭を掻く。
すぐにヴァシレが戻ってきた。鋏に指を通して、拾ってきた葉を切ってみせた。そして、狼の髪の毛を持ち、目の前で鋏を入れる。狼は段々と視界が開けていく感覚が面白かった。聞き馴染みのない音も気に入った。
「ルプ。お前どこから来た。」
狼は緩んでいた口元を締めた。そしてじっとしたまま、黙り続けていた。
「家族はいるのか。」
これにも狼は答えない。しばらく沈黙があって、そうか、とだけヴァシレが漏らす。鋏の音だけが続く。
ヴァシレが小屋を出て、家へ戻っていく。狼は小屋を片付けて、安楽椅子に腰掛ける。
いつもより静かな夜に、狼は眠れなかった。
数分、目を閉じる。まぶたの裏を眺めていると、いろんな名前が飛び交う。斧、鋏、水、パン、ヴァシレ……。後頭部が張るような感覚がある。目を開けると、暗い室内は何一つ変わっていない。ヴァシレが出ていってから、どれだけの時間が過ぎたのか分からない。腰を上げたいのかどうか分からない。目を閉じたり開いたり繰り返して、狼はおもむろに立ち上がる。
桶を持って、小屋を出る。暗いうえにうろ覚えだったので、井戸から水を汲むのに手こずる。なんとか桶の半分ほどの水を汲み取れた。こぼさないように慎重に運び、小屋の脇にしゃがみ込む。
狼はシャツとズボンを脱いで、桶に入れた。ついでに、軽く水をすくって肩や胸にかける。そのまま全身を擦って、汚れを落としていく。浸けた服を揉み、よく絞ってから傍の木に引っ掛ける。桶に残った水を頭から被り、体の匂いを嗅いだ。
戸の前に並べられた端材を一つ手に取り、体に擦り付ける。端材が完全に濡れてしまったら、また次のを手に取った。体から滴る水がなくなるまで、木で拭き続けた。
その後、狼は安楽椅子に戻り、布を被って目を閉じる。
気が付くと朝になっていた。ヴァシレが呼んでいる。
戸を開くと、ヴァシレともう一人誰かが話しているようだった。
「なんで服を着ていないんだ。さっさと支度をしろ。この積荷を全部下ろして、戸の前に置いておくんだ。いいな。」
狼は急いで、木にかけていた服を取りに行く。ヴァシレが話しているのは、見知った客らしい。話しながら、こちらを見ている。
「あれはなんだい。お前に息子でもいたか。」
「いいや、ただの手伝いだ。夕方には済ませておくから、取りに来てくれ。」
客は狼の方を気にしながら、荷車を置いて去っていった。
昼過ぎに作業が終わって、ヴァシレは小屋を出る。
「いいか、俺は用事があるから少し留守にする。もしもイリエが来たら、クローネ硬貨を三枚受け取りな。お前も今朝見た男だ。受け取ったら、荷車にそいつらを載せてやれ。」
狼は留守番を頼まれた。
戸を叩く音がして、狼は椅子から立ち上がる。
「おい、ヴァシレ。取りに来たぞ。」
狼が戸を開けると、今朝も会ったイリエと呼ばれる男がいた。
「ああ、留守番か。仕事は済んだのかい。」
「はい。クローネ、三枚。」
男はズボンに手を突っ込み、硬貨を探る。取り出した硬貨を手の平に広げて、そこから三枚を狼の手に握らせた。狼は、ヴァシレから預かっていたクローネ硬貨と見比べて確認する。
硬貨をズボンに入れて、それから修理した家具類を荷車に載せていく。客もそれを手伝った。
「お前、ここに住んでいるのか。こき使われているんだろう。これはお前が持っておけ。」
狼は二十ヘラー硬貨を二枚手渡される。客はすぐに荷車を引いていってしまった。とりあえず、まとめてズボンに硬貨を入れておいた。
「三クローネと四十ヘラーあるじゃないか。これはどうした。」
帰ってきたヴァシレに硬貨を手渡すと、問い詰められた。狼は手渡されたことを伝える。ヴァシレは少し考えた後、四十ヘラーを狼に返した。
「明日、下の露店に連れていく。ちゃんと服を着ておきなさい。」
翌日、昼前にヴァシレは狼を連れ出した。
初めて見る人の多さに、狼は緊張していた。ヴァシレから離れないように、裾を掴みながら歩いた。
歩きながら、ヴァシレはお金というものを狼に説明する。働いたり、物を売ったりしたら貰える。逆に、人を使ったり、物を買ったりしたら渡さなくちゃいけない。
「まずはこれをやるから、パンを一つ買ってみろ。」
狼は言われるがまま、受け取った金を店の主人に渡す。何が欲しいんだ、と聞かれて、パン、とだけ答える。すると、パンを渡された。
「そうだ。次は、昨日の金で何か欲しいものを買えばいい。自分で選ぶんだ。」
狼は迷った。食料を選ぼうとしたら、ヴァシレに止められる。それ以外で、何か選ぶことが難しい。時間をかけて探していく中で、狼は新聞を手に取った。
「新聞か。ルプにはまだ難しいかもしれないが、買ってみるか。」
狼は新聞を広げながら帰った。ヴァシレが言うには、黒い模様が文字という形になっているらしい。ヴァシレがいくつか読み上げてくれたが、あまり頭に入ってこない。そのうち新聞を眺めることも飽きてしまい、丸めてしまった。
小屋へ戻ろうとする狼を、ヴァシレが呼ぶ。
「もう夜は寒くなってきただろう。こっちへ来い。」
初めて、小屋の隣の家に入る。小屋に比べれば、かなり広い。炉のようなものがあって、老人がそこに火をつける。じわりと温かさに包まれる。
「寝具はないんだがな。あっちで寝るよりはましになるだろう。好きに寝なさい。」
狼は小屋から安楽椅子を持ってくる。炉の近くに置いて、火を眺めた。ヴァシレは気にする様子もなく、寝支度を整えている。
暗くなった室内に、ヴァシレの咳が混じる。狼は椅子を軋ませている。部屋に残っている温もりを感じながら、ゆっくりと眠った。
朝は暗く、冷たい空気がルプの肌に刺さる。作業小屋へと続く道に落ち葉が散り、それを踏みつけながら仕事の準備に向かう。
今日は客が机を持ってくるそうだ。大きな家具類を搬入するときは、専用の入口から通さなければならない。最近はそういった大きな仕事が入ってこなかったから、資材や工具で塞がれている。客が来る前に片付けておかないといけないのだ。
ヴァシレはそういう仕事はやりたがらない。以前、腰を痛めたらしいのだが、ルプには面倒ごとを押し付けているようにしか思えなかった。
しかし、こういうときは決まって、朝食が手の込んだものになる。それに比べれば、整理するだけの作業は文字通り朝飯前なのである。
今は秋という時期だそうだ。
時間が経つにつれて、これが冬となり、春夏となってからまた秋になるらしい。ルプは小屋を片付けながら、林の方を眺める。手元に視線を移して、また外を見る。同じ景色に何度も振り向いた。
手の込んだ朝食を食べながら、ヴァシレが口を開く。
「なあ、ルプ。少し寒くなってきた。それじゃあ寒いだろう。机の受け取りが済んだら、上着でも買ってこい。靴も一緒に買うといい。」
ヴァシレは十クローネ分の金を机に放る。
「これを足しにしろ。」
ルプはベーコンとパンを口に詰め込み、金をポケットに入れた。前から貯めていた金に加わり、ポケットが急に重くなった。
ルプは商店へ出向き、新しい服を探す。何着か吊るされているのを見つけるが、何を買うのがいいか迷ってしまう。店の主人は見かねた様子でルプに話しかける。
「あんた、上着を買いに来たんだろう。今年は冷えるからね。」
ルプは話しかけられたことに驚き、俯きながら返す。
「寒い、上着を買う。」
店主も呆気に取られたような表情を見せ、吊られたうちの一着を手に取る。
「これなんてどうだい。九クローネだ。丈もちょうどいいだろう。」
ルプはポケットから金を取り出して、店主に渡す。
「どうも、少しまけるよ。これは釣りだ。」
硬貨と上着を受け取る。店を後にして袖を通すと、若干袖が余っているのが気になった。腕を捲って、靴も探してみる。
買い物を済ませて、履き慣れない靴で帰る途中、新聞を見つけて足が止まる。この前買った新聞はどこかにいってしまった。もう一度見てみようと思っていたのだが、全く見つからなかったのだ。ポケットの中を確かめて、一部購入した。まるで読めなかったが、敷き詰められた文字を眺めながら小屋へ戻った。
小屋の手前で、イリエと出会う。向こうから声をかけてきた。
「やあ、ヴァシレのとこのルプだな。うちの店の看板が壊されたんだよ。新しいのが必要なんだ。急ぎで伝えといてくれよ。」
そう言うと、ルプに構わずに足早に去ってしまった。
小屋に戻って、ヴァシレにそのことを伝える。
「急ぎか。それならルプ、お前がやれ。」
ヴァシレは机の修理に忙しいようだ。ルプは指示された通りに資材を運ぶ。
「そしたらな、目印のところで鋸を引け。」
ルプはヴァシレの言う通りに仕上げていく。何度かヴァシレに手直しされながら、着々と進めた。
「ヴァシレ、できた。これ、いい。」
ヴァシレは出来上がった看板を注意深く見つめる。触りながら出来栄えを確認し、ルプに返した。
「急いでイリエの店に持っていってやれ。場所はわかるな、この前連れていっただろう。文字入れは向こうがやるはずだ。」
ルプは看板を持って、イリエの店に向かった。新しい靴が慣れなくて、もたつきながら走った。
店前に看板を置いて、中の様子を覗く。中にいた女性と目が合い、しばらくするとイリエを連れて出てきた。イリエは看板を軽く見てから、ルプの肩に手をかける。
「今日のうちに持ってきてくれたのか。助かるよ。」
代金を受け取り、ルプは帰ろうとした。イリエがそれを呼び止める。
「なあ、これルプがやったんだろう。見たら分かるさ。釘の打ち方があの爺さんじゃあないな。」
「はい。ヴァシレが言って、ルプがやった。」
「そうか。お前が作ったって分かるように、裏にルプの名前を入れてくれよ。せっかくだからな。」
イリエは隣の女性に問いかける。女性は笑いながら頷く。
「そうね。いいんじゃない。」
ルプは筆を手渡される。ペンキに筆をつけるように促されるが、名前を書くということがわからなかった。
「名前書くことはわからない。ごめんなさい。」
イリエと女性が顔を見合わせる。何か囁き合った後、イリエがルプの筆を取り上げた。
「俺が書いてやる。これがルプの名前だ。ちゃんと覚えるんだぞ。」
イリエが看板に筆を走らせる。その筆先を追うようにルプは見ていた。看板の裏に黒色でLUPと書かれる。書き上がった文字を見つめて、地面に指を滑らせる。看板に書かれたものとは少し違っていた。地面をさすって、また指で書いてみる。
「ルプ、俺たちは仕事に戻るよ。ありがとう。また何かあったら頼むよ。」
二人は店内へ戻っていく。その後もルプは地面に文字を書き続けていた。
小屋に戻ると、ヴァシレはいなかった。修理していた机も無くなっている。家の方から煮込んだ肉の匂いがして、ルプは家へ向かった。
ヴァシレにさっきの代金を手渡すと、何枚か硬貨を返された。
「それはお前の分だ。」
いつもよりも多かった。また何か買いに行ける。何を買おうか、と考えてみた。ふと、今日買った新聞のことを思い出した。小屋に置いてきた新聞を取ってきて、ヴァシレに見せる。
「文字、書く。」
ヴァシレは料理する手を止めて、ルプを見る。
「そうか。しかしな、読めないもんを書けやしないぞ。」
そう言って、ヴァシレは新聞を手に取る。机に置いてから、鍋の火を止めた。
食事を済ませて、ヴァシレは新聞を広げた。ルプも新聞を覗き込む。ヴァシレが話し出したが、どうやら新聞を読んでいるらしい。よく聞きながら、ヴァシレがなぞっている指を辿った。
一面を読み終えると、ヴァシレは席を立って、食器を片し始める。ルプも慌てて食器をまとめる。
文字についてはまるで分からなかったが、その日以降、夕飯を終えるとヴァシレは新聞を読み聞かせるようになった。ヴァシレが読み終えると、ルプは端から順に文字を書き写していく。数日かけて全て写したら、また新聞を買い足した。いつしか家の隅には新聞の束が積まれていた。
ルプがいつものように小屋を掃除している。端材を戸の前にまとめると、黄色い花が咲いている。後でヴァシレに伝えてみると、もう春だと言われた。ルプは花を撫でてやり、仕事に取り掛かる。
子供用の椅子を作るそうだ。いつもよりも小ぶりな木材たちを組み上げていく。ヴァシレはなんだか普段以上に丁寧な手つきをしていて、ルプは少し緊張していた。
品物を届けて帰ってきたヴァシレが、重い顔つきで話し出す。
「ルプ、お前はうちの手伝いだ。しかし、それだけじゃあ置いてやれない。どこの誰かも分からないんじゃあな。」
ルプは聞き返す。
「僕はルプ。ヴァシレの手伝い。それは違うの。」
ヴァシレは困ったように頭をさする。
「俺はそれでいいんだ。もちろん客もそれで納得している。だがな、役所はそれでよくないんだ。お前がこのままここにいる気なら、説明しなくてはいけない。」
ルプには意味が分からなかったが、ヴァシレがそうしないといけないと言っていることは理解できた。それ以上、聞き返すことはなく、明日役所に行くということに頷いた。
ルプは初めて役所に入る。家や店とは違う雰囲気が新鮮で、手には汗が滲んでいる。ヴァシレが少し話した後、係の人間がルプに話しかける。
「ルプさんですね。」
「はい、ルプです。」
「姓はなんですか。」
ルプは戸惑い、ヴァシレを見る。ヴァシレは係の人間を見たまま、黙っている。ルプは少し考えて、返事をした。
「分かりません。」
「では、生年月日は。」
「分かりません。」
出生地や両親、宗派についても聞かれるが、ルプは答えられなかった。
「では、ヴァシレさんのところで働く前は、どうなさっていたんですか。」
「森にいました。」
係員は目を見開く。ヴァシレの方へ目線をやるが、ヴァシレは俯いてしまう。ルプは何かまずいことを言った気がした。係員は手元の紙に何か書き込んでいる。上の隅にルプと書かれていて、他はほとんど記入されていない。
少しの沈黙の後、ようやくヴァシレが声をあげる。
「こいつはもう半年近くもうちで働いているんだ。村の奴らだって、こいつのことを知ってる。他に何がいるんだ。」
荒い口調にルプは驚く。係員は宥めるように説明していたが、ルプはそれが頭に入ってこなかった。
またすぐに来るよう伝えられ、二人は役所を後にした。帰り道、ヴァシレは機嫌が悪いように見えて、ルプは口を開くことができなかった。
家に帰って、ルプは新聞を広げる。端に自分の名前を書いてみた。それから下に、森、と続ける。鉛筆を持つ手を止めて、炉の火を見つめる。
「ルプ、今日はもう寝ろ。また今度、それでいい。」
ヴァシレはルプから新聞を取り上げ、寝床に向かう。ルプは安楽椅子に座り、しばらく炉を眺めていた。
それから三日間、午後の作業はルプに任されて、ヴァシレは村中を回っていた。客としてルプと関わりのある者や、ルプが買い出しに行く店の主人に話をつけて、ルプの身元の証言を記してもらった。
半年ほど前からヴァシレの小屋にいること、ヴァシレの手伝いをしていること、ルプと呼ばれていること。四人ほどの人間を訪ねたが、このくらいの情報しか証言は出なかった。証言を集めるほどに、ヴァシレは気を落としていった。
そんな表情を見て、ルプは自分が良くないことをしている気になってしまった。
こうして小屋で作業をしているだけでよかったのだ。自分がルプということ以外は分からない。そもそもルプという名前自体もよく分からない。そんなことは暖かい寝床、食事に比べれば、全く重要ではない。
しかし、ヴァシレにとってはそうでもないらしい。事実、自分のせいで困らせている。だとすると、寝床や食事を失わないためにも、自分を説明しないといけない。
しかし、以前は森にいた、それ以上の説明がどうしても浮かばなかった。
翌日の早朝、ルプはいつもより早く家を出る。家の脇にある雑木林の方へ足を踏み入れる。奥へ進むと生活音は消えていき、しんとした森になっていた。若い葉が生い茂り、歩きづらくなっていく。冬の朝のような暗さで、徐々に不安を覚えていった。
木には引っ掻き傷のような跡がある。動物が残したものだろうか。ルプは匂いを嗅いでみたが、木の香りしか分からない。
この森という場所にいたというのは確かであったが、あまり馴染みを感じることもできない。親と呼ばれるものはどこにいただろう。食って寝てはいたが、どこに住んでいたのだろう。
説明を試みても、結局は分からないということしか言葉にならなかった。ルプは諦めて、来た道を引き返していった。
書簡を持って、二人は再び役所へ出向く。前回と同じ係員が出てきて、声を掛けられた。
「こんにちは。ルプさんの届け出の件ですよね。」
案内されるままに席に着く。係員は同僚らしき人間に耳打ちして、そのまま奥の方へと入っていった。ルプは待ちながら、周りを見渡す。他に客はいないようだった。同僚らしき男は紙の束を撫でながら、反対の手でペンを動かしている。こちらを気にしているようで、何度も目が合った。椅子の足を触ってみると、ヴァシレが鉋をかけた方がずっと滑らかだと感じる。少し嬉しく感じて隣にいるヴァシレの顔を見ると、一点を見つめたまま微動だにせず、ただ黙っていた。
係員が奥の部屋から出てきた。
「どうも、お待たせしました。まずは分かるところだけ書いてください。」
座りながら用紙を手渡してくる。ルプはペンを手に取り、ぎこちない筆運びで書いてみた。ヴァシレは用紙を覗き込み、それから書簡を広げて見せる。
「書簡にまとめたんだ。身元はわからないが、少なくともこいつは今うちで働いている。」
係員はそれを受け取ると、まじまじと見つめた。二枚目以降は軽く目を通して、ルプの手元を見る。
「新たに判明したことはなさそうですね。やはり、これでは身元を確かめるのは難しそうです。」
ヴァシレは明らかに落胆した様子を見せた。係員は一瞥して、続ける。
「一旦、現住所と雇用についてだけは記録しておきます。何か分かれば、すぐにまた来てください。こうやって後から来られても、困りますから。いいですね。」
ヴァシレは黙ったまま頷く。ルプは用紙を手に取り、ヴァシレに見せた。間違いがないのを確認してから、係員へ提出する。
終始、強張った顔をしていたヴァシレは役所を出た途端、軽くため息をつく。ルプはその時のヴァシレの顔は見ないように、黙って前を見て歩いた。
家へ帰ると、ヴァシレが小屋から何か取ってきてルプに手渡す。棚のような見た目だが、片手で持てるほど小ぶりで、細かな装飾が彫られている。
「最近、買い物するだろ。全部ポケットに入れておくのも邪魔だ。これに入れろ。」
ルプは小物入れを受け取る。引き出しを開けると、樫の匂いが広がった。
「それとな、工具棚の一番下を空けてある。そろそろ自分の工具を持て。お前の力じゃ、俺のが馬鹿になる。」
ルプはそれから、ほとんど毎日、市場へ足を運ぶようになった。食材や資材の買い出しついでに、新聞や小物を買うこともある。村の人間から声をかけられて、立ち話もする。
雑用ではあるが、ルプはこの時間を楽しんでいた。
ある日、金物屋へ寄るように言われる。そこで品物を受け取ってくるように、ということだった。そこへ行くのは初めてだったので、緊張していた。
戸を叩くと、男が出てくる。
「ああ、ヴァシレのとこのだな。」
男は中へ戻って、またすぐ出てきた。そして、鍵を一本手渡す。
「代金はもう貰ってる。」
金物屋の中を覗いてみたかったが、意外にも戸の前で用事が済んでしまった。店の人間も会ったことのある男だった。以前、机の修理を請け負ったことがある。あっけらかんとしたまま、用事を済ませたルプは家へと帰る。
「それはお前のだ。失くすなよ。」
そう言われて、差し出した鍵を返されてしまった。
「お前も外に出ることが増えたし、俺の鍵をいちいち貸してたら面倒だ。自分で持っておけ。」
「わかった、ありがとう。」
ルプはポケットに鍵をしまった。硬貨や懐中時計に混じった鍵の感触を、ズボンの上から何度も確かめる。
「それとな、役所から手紙が来てた。」
机の上に広げられた紙に目を通す。自分の名前が書かれている。
「読めるか。内容としては、役所で言われた通りだ。何か思い出すようなことがあれば、この紙を持っていけ。」
ルプは少し考えた後、返事をする。
「わかった。頑張る。」
肩の荷が下りたように、ヴァシレは一息ついて腰を上げた。ルプは手紙を小物入れにしまう。ついでに鍵もしまおうかと迷ったが、そのままポケットに入れておくことにした。
それからしばらく、ルプが役所を訪れることはなかった。たまに自分のことを考えてみるのだが、変わったことは何もない。むしろ、思い出そうとしても頭が疲れるばかりで、考えないようになっていった。
夏も終わりが近づき、今夜は涼しい風がある。虫の音もよく聞こえてくる。ルプは安楽椅子に腰掛けながら窓の外を見ると、大きくてはっきりとした月が浮かんでいた。
明日は朝早くから仕事がある。ルプは微睡みながら、窓の外を眺めていた。
第三章
それから、季節は何度も巡った。
朝の光と共に、小鳥たちのさえずりが舞い込む。連日の疲労はこの瞬間だけ失われて、呼吸する空気までもが活気に溢れている。
ルプは大きく深呼吸をして、作業着に着替える。
顔を洗って卓に着くと、朝食が用意されている。茹で野菜、焼いた卵とパン。
「ルプさん、今日は早起きですね。何だか顔色もいいみたいですよ。」
「おはよう。そうだね、イオンのおかげさ。だいぶ楽させてもらってるよ。」
イオンは照れ臭そうに頭を掻く。
「今更、そんな言葉をルプさんの口から聞けるとは。それじゃあ、いただきましょう。」
「ああ、そうだね。」
二人は談笑しながら朝食を済ませる。部屋の奥では、ヴァシレがまだ眠っていた。ヴァシレの朝食を台所に置いて、イオンは一足先に作業小屋へと出向く。
「ヴァシレ、もう起きる時間だよ。イオンが朝食を用意したから食べよう。」
ヴァシレはゆっくりと目を開き、ルプを見つめる。
「そうか、食べておくから。お前も早く仕事に行け。」
ルプは台所から皿を持ってきて、枕元に置いた。懐中時計を確認しながら、話を続ける。
「ああ、行ってくるよ。後でヴァシレも来てよ。」
返事を待たずにルプは家を出ていく。玄関前にいた小鳥が二羽、飛び立った。それを目で追う。鼻歌混じりに歩き出す。
ゆったり歩いていると、小屋の方からイオンの大きな声が聞こえてくる。
「ルプさん、もうお客さんがいらしてますよ。」
ルプは小走りに向かった。
「では、四クローネでやりますよ。明日には終わりますから、イオンが届けに行きますので。」
ルプは受け取った小箱を机の上に置いて、そう告げた。
「そうかい、頼むね。」
客を見送って、ルプは小屋へと戻る。
「イオン、そのまま昨日の仕事を続けておいて。終わったら声を掛けるんだ。俺は先にこいつをやらなくちゃあ。」
小箱を手に取って、工具棚を漁る。イオンが手を止めて振り返った。
「それはいいですけど、今日は早めに仕事を切り上げるはずでしたよね。酒場でご馳走してくれるって。」
「ああ、わかってるよ。だから、手を動かして。」
それから小屋には木材を組む音や槌を打つ音だけが鳴った。
「ワインちょうだい。二杯ね。」
一人で席に着いているルプを不思議そうに見ながら、給仕の女は酒を持ってきた。
「どなたさんと待ち合わせかしら。私じゃないのよね。」
「ソフィアと飲むのもいいけど、先約がいるからね。イオンがそろそろ来るよ。」
「まあ、最近仲良いのね。私はまた今度、予約しておくから忘れちゃだめよ。」
ルプはぎこちない笑顔でワインを口に運ぶ。ソフィアがその場を離れるまで、窓の外なんかを見たりしていた。
そこにイオンの姿を見つける。急いでいるようで、入ってくるなり忙しなく首を振ってルプを探していた。
「ご苦労様。ちゃんと四クローネ貰ってきたか。」
「はい、しっかりと。しかし、先に始めるなんて酷いですよ。待ってくれてもいいのに。」
仕切り直して、乾杯した。
今日もワインが美味いこと、イオンの鉋掛けが粗いこと、またヴァシレは小屋に来なかったこと。あれこれ話しているうちに、どれだけ飲んだかも分からなくなった。
「それでは、僕は帰りますから。ソフィアさんが送ってくれるそうですよ。あまり迷惑かけないようにしてくださいね。」
イオンは四クローネから支払いを済ませて、残りをルプのポケットに突っ込んだ。心配そうに何度も振り返りながら、酒場を出ていった。
着替えを済ませたソフィアがルプの腕を肩に回して、酒場から連れ出す。ルプは空返事を続けていて、足取りもおぼつかない。
「もう、たまにこうなるんだから困るわ。」
ソフィアはぶつくさと愚痴をこぼしながら介抱した。
途中、足を止めてルプを座らせる。ルプは辺りを見回して、少し冷静さを取り戻した様子である。
「あれ、ここは俺の家じゃないな。ソフィア、君が送ってくれたのか。もう自分で帰れるから、ありがとう。」
ソフィアは、ふらつきながら立ち上がるルプの手を取った。
「いいえ、心配だもの。」
そして、引っ張るように歩き出す。
「ねえ、もしもルプが私の家に住んでいたら。それなら、凄く楽じゃない。あなたの家まで送りに行く必要がなくなるわ。私が帰るのと一緒に、あなたも帰れるのよ。」
「ソフィアの家に俺が住むって、なんで急に。君も酔っ払っているのか。」
少し間ができて、それから笑い合った。ルプはよく分からずに笑いながら、また考えてみる。
「でも、それも悪くはない。君と帰って、君に起こされて、小屋で仕事して。ううん、やっぱりおかしいかな。」
そう言って、またルプは笑った。ソフィアは振り返らずに、ただ手を引いて歩く。
ルプはこの感触に覚えがあった。何度も、こうしてソフィアに連れられて帰ったことがあったのだろうか。この感覚をどう言うべきか分からない。知っている言葉を片っ端から思い起こすが、口をついて出る言葉はなかった。
温かいソフィアの手と冷たい夜の空気が、楽しくもあり心地悪くもあった。
気が付けば、家の目の前まで来ている。
「ありがとう。いつもこうして送ってくれてるのかい。」
ソフィアは荒い息で返す。
「そうね、肩を貸さないで歩けたのは今日が初めてよ。いつもそうなら、もっと楽でしょうね。」
ルプは返す言葉がなく、立ち去るソフィアの後ろ姿を見送った。
玄関をゆっくり開ける。家の中は真っ暗で、物音の一つもない。炉に薪を焚べると、用意していた夕食が食いかけの状態で机の上に放置されていた。奥に目をやると、ヴァシレが眠っている。
ルプは食いかけを平らげて、読み途中の新聞を広げた。安楽椅子に座りながら、小さい声で読み上げる。
そうしてまた、新聞を読み途中のまま眠っていた。
イオンの声で目が覚める。
「おはようございます。もうそろそろ起きてください。これどうぞ。」
水の入ったコップを手渡される。ルプは一気に飲み干して、頭を押さえた。
「ありがとう。また飲み過ぎてしまったね。」
「そうですね。ここに来てルプさんがいなかったら、どうしようかと思ってましたよ。」
手早く朝食を済ませて、仕事に向かう。若干の頭痛が残っていたが、それも昼過ぎには消えていた。
仕事も終わりに差し掛かり、片付けを始めていたところ、戸を叩く音が聞こえた。遅い時間に木工屋を訪ねてくる人間は少ない。いるとすれば、ほとんどが急用だ。
イオンと目が合った後、ルプは気怠げに戸へ手を掛けた。
「あら、ちゃんと仕事できているのね。」
ソフィアが笑みを浮かべながら立っていた。ルプは少し戸惑う。
「あれ、お客さんではないよね。どうしたんだい。」
「昨日、あなた時計を置いていったみたいよ。ほら、これ。」
ルプの懐中時計だった。全く心当たりがなく、ポケットに手を入れる。確かに、懐中時計がない。ポケットから取り出した記憶はなかったが、それを受け取った。
「それとね、今日うちで食べていってよ。昨日のこと、覚えてるかしら。帰りが遅くなったのを母さんに言い訳してほしいの。」
ルプが振り返ると、イオンは微笑している。少し考えてから、小さい声で返す。
「酒場で待っててよ。もう少しかかるから。」
手を振りながら去っていくソフィアを見送る。片付けに戻ると、イオンはまだ笑いながらルプを見ていた。
急いで酒場へ向かい、ソフィアと落ち合う。店前で壁にもたれかかりながら、髪の毛をいじっていた。
歩きながら、ルプは考える。ソフィアの帰りが遅くなったことはこれまでに何度かあるはずなのに、なぜ急に説明しに行く必要が出たのか。ソフィアの母親が急に怒り出したのだろうか。それに昨日ソフィアの家に住むと言っていたら、それこそ母親になんと説明するつもりだったのだろう。とにかく、自分が介抱されていたことを伝えればそれで役目は果たせるのだろう。
昨日の経緯を一つずつ思い出しながら、ソフィアの後を歩いた。
古そうな家屋の前でソフィアが立ち止まる。どうやらここが目的地のようだ。
軋む戸を開くと、年季の入っていそうな家具や床材が目に入る。戸の建て付けが気になって、何度か開閉してみる。作業小屋の戸とは仕組みが違っていたが、外してみれば修繕できそうだ。留め具の付け替えだけで済むと思う。
「ちょっと、仕事は済ませてきたんでしょう。私が誘ったのは夕食なんだからね。」
ルプは戸をひと撫でしてから、案内されるまま席に着く。隣にはソフィアの母親らしき人物が座っていた。ヴァシレよりは若く見えるが、五、六十代だろうか。軽く目を合わせる。ソフィアがテーブルに皿を並べ終わるまで、無言の時間が続いていた。
「さあ、食べましょう。母さん、よくうちの酒場に来てくれるルプよ。前にも話したことあったよね。」
促されて、ルプも挨拶をする。
「どうも、ルプといいます。昨晩はソフィアに送ってもらって。それで、すみません。」
ソフィアの母親は手を動かしながらルプを見る。
「そう、あの木工屋の。この子が男の方を連れてくるのは初めてでね。無理矢理呼んできたんじゃないのかい。」
「いえ、そんなことは。」
ソフィアが割って入るように口を出す。
「ねえ母さん。今日ルプを泊めてもいいかしら。昨日から身体を休められてないだろうし、もうすぐ暗くなるわ。また送っていくのは面倒だもの。」
ルプは驚いてソフィアを見る。それから母親の方を見ると、少し考え込んでから黙って頷いた。
ルプは、客として人の家に泊まるという経験に乏しかった。どこまで勝手にしていいものか、分からなかったのだ。ただ一晩寝て過ごせばそれでいいのか。それとも、この二人の家族の会話に入っていくものなのか。あるいは、それ以上に何かを求められているのだろうか。
ソフィアに抗議しようとしたが、嬉しそうな表情で料理を食べている。
「せめて、ヴァシレに言わないと。」
「それなら大丈夫よ。ちゃんと伝えておいたわ。」
ルプは驚いた。ソフィアがそこまで周到に進めていたとは思ってもいなかった。逃れられないことがわかって、ルプは進んで夕食の片付けや洗い物を請け負った。ソフィアの母親の話にも付き合い、次第に居心地の悪さも感じなくなった。
「そろそろ寝ましょうよ。夜更かしは身体に障るわ。ねえ、母さん。」
「そうねえ。ルプはこの部屋を使って。ベッドはないけど、いいかしら。」
ソフィアの母親は寝支度を調えにいった。ソフィアは隣の部屋に入っていく。あの小さい部屋が彼女の寝室だろうか。
「これを使ってちょうだい。私とソフィアはもう寝るから、明かりは自分で消しておいてね。」
ルプは毛布を二枚手渡される。そして、そのままソフィアの母親も自身の寝室へ入っていった。
他人の家で一人取り残され、ルプは急に寂しさに襲われた。
仕方なく床に一枚を広げて、もう一枚を被るようにして横になった。床の冷たさがじわじわと伝わってくる。体勢を変えるたびに、床の硬さが気になった。家に帰って安楽椅子を取ってきたかった。
寝付けずにいると、足音が聞こえてくる。そちらを確認すると、ソフィアがいた。彼女の手が伸びてきてルプの腕に触れる。
「やっぱり寝れないかしら。」
ルプは手を重ねて、天井を見つめる。
「いや、大丈夫だよ。こういうのは久しぶりだから。」
床に寝転ぶと、ちょうど窓から月が見えるのに気が付いた。ソフィアの指をさすりながら、星を数えていた。
朝になってソフィアに肩を揺すられる。目を覚ますと、ソフィアがかがみ込むようにルプを見ている。そして、からかうように言う。
「長いこと寝るのね。よほど疲れていたのかしら。」
ルプは重い身体を起こして、目をこする。仕事のことを思い出して、急いで懐中時計を確認する。まだ二時間は余裕がある。
「よかった、寝過ぎたかと思ったよ。」
「そう、いつもあんまり寝ていないのね。朝食を用意するわ。」
ルプは少しぼうっとしていた。ソフィアに起こされるのは悪くない。もう少しここでゆっくりしていたい。
「よく寝れたかしら。」
隣の部屋の扉からソフィアの母親が顔を見せる。
「毛布はそこに畳んでおいて。片付けるのは私がやるからね。」
朝食の後、ソフィアにもう少しゆっくりしていくよう勧められたが、断って家へ向かった。それでも、これから仕事をするのは億劫だった。
家に帰ると、ヴァシレはもう起きていた。ルプの方を見ずに、座ったまま話す。
「イオンはもう小屋を開けに行ったぞ。」
ルプはなんとなく気まずい気がしてきた。
「そうか。」
返事をしてみるが、沈黙が続いていた。しばらくすると、イオンが戻ってきた。
「ルプさん、おはようございます。今日の仕事の準備しておきましたので。」
ヴァシレはルプの方へ目をやった。
「ルプ、仕事はどうする。」
イオンは何も分からない顔をして立ち尽くしている。
「今日は休むよ。」
ルプは意を決したように答えた。ヴァシレは、そうか、と一言だけ残して小屋へ向かう。イオンもそれに続く。
昼頃にソフィアの家に戻って、ルプはそれからもう一泊した。特に何をしたわけでもないが、仕事の話をしたり、ソフィアの母親に裁縫を教えてもらったりして過ごした。家から出ず、仕事もしないで過ごしたのは初めてだったかもしれない。一日が緩やかに進んでいく感覚だった。
それからというもの、懐中時計を開くたびにソフィアの家で過ごした時間が思い出された。仕事をしている最中にも、そのことが脳裏にあった。
週末、酒場に行って、ソフィアの家にまた泊まりたいと伝えてみた。ソフィアはこれを快諾してくれた。翌週末は、ソフィアの方からまた誘ってきた。
「おい、イオン。今日もルプはあっちにいるのか。」
「ええ。ヴァシレさんの夕食は僕が用意しますから大丈夫ですよ。それにしても、なんだか急ですよね。」
イオンは安楽椅子の上に置かれた新聞をよけて、腰掛ける。肘置きを触りながら、椅子を揺すっている。
「そうか。」
ヴァシレは作業着を脱いで、寝巻きに着替える。箪笥に立てかけてある杖を手に取って、寝具に腰を掛けた。イオンが立ち上がり、夕食の準備に取り掛かる。
それを見ながら、ヴァシレは杖を撫でていた。
「長かったわね、お帰りなさい。」
ソフィアが仕事終わりのルプを出迎える。ルプはそのままソフィアの部屋に行き、置いてある着替えを手に取った。
「君は休みだったんだっけ。今日は何していたんだい。」
「買い物よ。今日の夕食のために、隣の町まで行ってきたんだから。」
ルプは着替えながら振り向く。ソフィアはさっきよりも楽しそうな顔をしている。
「そうかい、それは楽しみだな。今日は疲れたんだ。すごく腹が減っていてね。」
「もうすぐ出来上がるわ。早く着替えてちょうだいね。」
そう言うと、ソフィアは台所へ向かっていった。
ルプは作業着を畳んで、それから客にもらった代金を木箱に入れた。買ってきた新聞を木箱の横に置いて、ソフィアの部屋を出る。玄関では気が付かなかったが、肉の煮込みのような、食欲をそそる香りが漂っていた。思わず喉が鳴ってしまいそうなほどだった。
夏も折り返しに差し掛かる。
相変わらず、ルプはソフィアの家と作業小屋の往復を繰り返していた。ソフィアはそれを喜んでいたし、彼女の母親も受け入れていた。週末にはヴァシレの家にも戻るようにしていたが、安楽椅子ではどうにも寝付きが悪くなってしまっていた。
ルプは小屋から工具を持ち出して、ソフィアの家の玄関扉をいじっている。ソフィアの母親はそれを見守りながら、夕食の準備を進めている。
「悪いねえ。ずっと気になってたから、助かるわ。」
ルプは汗を拭って、顔をあげる。
「いえ、お世話になってますから。よかったら今度、おばさんの部屋の机もやりますよ。がたついてるって言ってましたよね。」
「あら、お願いしようかしら。」
そこへソフィアが帰ってくる。玄関に屈んでいるルプを跨ぐようにして、家に入る。片手で荷物を抱えていた。
「ほら、これルプに似合うと思うんだけど、どうかしら。」
縞の模様が入ったシャツを広げる。ルプは手を止めて、立ち上がる。
「本当に俺が貰っていいのかい。ありがとう。今度、何か返さないとな。」
受け取ろうとすると、ソフィアは手を引っ込めた。いたずらに笑っている。
「まだお預けよ。」
ルプは笑って返した。
「でも、服も増やさないといけないな。ほとんど向こうの家に置いてあるからね。」
「こっちに持ってきたらどうかしら。」
ルプは少し考えた。確かにほとんどソフィアの家に帰っているのだから、そうすべきだとはわかっていた。しかし、ヴァシレの前で荷物をまとめるのが憚られた。唸って考え込んでいると、ソフィアが続けて言う。
「私も手伝うわよ。」
ルプはまた考えて、これに答える。
「いや、大丈夫だよ。自分で持ってくるから。」
週末、ルプは昼過ぎに残りの仕事をイオンに指示する。イオンは一人で仕事することにも慣れてきたようで、ルプは確認するだけで済んだ。
仕事はイオンに任せて、ルプはヴァシレの家に向かう。扉を開くと、ヴァシレは寝具の上で横になっている。ここ最近、体調が優れないらしいので休んでもらっていた。ルプが服やら本やらをまとめていると、ヴァシレが声をかけてきた。
「それ、どうするんだ。」
ルプはこの言葉を想定していた。わざとらしく平然を装って話す。
「ソフィアの家に持っていくんだ。向こうで暮らすから。」
何も問題がないということをあれこれ付け加えて話す。ヴァシレは振り返ることなく、黙って聞いていた。
荷造りが終わり、部屋を見渡す。隅に積まれた新聞が目に入る。一部手に取ってみると、拙い字で書き込みされていて、懐かしい気持ちになる。元に戻して、ヴァシレの枕元まで寄る。
「ヴァシレ、ありがとう。行ってくるよ。」
家の前で荷車に積み込んでいると、ヴァシレが身体を起こして言う。
「明日も仕事、来るんだぞ。」
ルプは手を振って返事をして、荷車を引いていく。そんなに大荷物ではなかったが、思っていたよりは多かった。ソフィアに手伝ってもらうべきだった、と後悔しながら歩いていく。
「ねえ、ソフィア。俺が買ってきたワイン飲んだのかい。隠しておいたのに。」
仕事を終えたルプは帰ってくるなり、引き出しを漁っていた。ソフィアは悪びれる様子もなく、それに頷く。
「これのお返しを貰っただけよ。」
ルプの胸を指で小突く。縞模様の布地に、Lupと刺繍されている。ルプは返す言葉に困って、口をつぐんだ。
ワインは諦めて、新しいのを買うことにする。ソフィアが引け目を感じていない時には、何を言っても言い負かすことはできない。同居し始めて二週間が経ち、ルプはそう学んでいた。
夕食の席に着き、世間話を交えながら食事をとる。特に、ソフィアの母親は家を出ることが少ないので、こういった話を積極的に求める。ルプは早々に話の種が尽きてしまうのだが、ソフィアは無尽蔵に話が出てくる。
「うちの酒場のお客さんがね、若い給仕の子を嫁に取ったって。」
「あら、珍しいのね。やっぱり秋になると多いわ。」
どうやらこの時期は結婚が増えるようで、ルプの店にも何人かそういう客の依頼が入っている。
「あんたたち二人はどうなの。」
ソフィアの母親が軽い口調で聞く。ルプはソフィアに目をやるが、こちらに返答を任せるような素振りをしている。
「した方がいいのかな。」
ルプも軽く返した。
「したくないのかしら。」
ソフィアは不機嫌な振りをしながら、緩んだ口元で聞く。
「したいよ、君とするなら。」
目の前の二人の女が満足そうに微笑んでいるのを見て、ルプは急に小っ恥ずかしくなる。急いで料理に手を戻すと、ソフィアの母親がその手を握って言う。
「あなたの木工屋もヴァシレの頃と比べて、客の入りがいいそうじゃない。イオンも仕事を任せられるんでしょう。そろそろ考えてもいいんじゃないかしら。」
それから、二人は結婚するということで夕食は進んだ。
こんなにも簡単に決められるとは思っていなかった。しかし、これからも一緒に暮らしていくことを想像すると、嬉しく感じる。それでルプは夜もなかなか寝付けなかった。
ソフィアがルプの背中を撫でる。
「眠れないのね。私もなの。」
ルプは背中に体温を感じながら、返事をする。
「ああ。何だかこういうの、前もあったかな。」
「そうかしら。ええ、そうかもね。」
ルプは寝返りを打ち、ソフィアを見つめる。暗い部屋の中で、彼女の瞳だけが薄らと光っているように見える。頬に手を滑らすと、彼女は輝く瞳を閉じる。夜の冷たい空気の中で、彼女の頬は熱を帯びていた。
翌朝、ソフィアの母親が結婚の話を掘り返す。手続きにはいつ行くのか。そう聞かれて、ルプは困ってしまった。最近はすっかり無かったが、役所に行く用事というのはどうしても面倒で苦手だった。
「少し事情があるので。出生の件です。改めて書類を整理してからにします。」
ほとんどの役所からの書簡は、ヴァシレの家に置いたままにしてある。それを取りにいかなければいけない。
たまには戻ると言いながら、こちらの家に越してきてから、ヴァシレの家には行っていなかった。いつ行けばいいのか機会が分からず、結局一度も行けていないのだ。
それが、書簡を取るためだけに行くとなるとヴァシレに悪い気がして、後ろめたさを感じてしまう。ルプは作業小屋へ向かう足がいつもより重く感じていた。
いつものように仕事を済ませる。時計は午後二時を指している。今日は早いが、切り上げることにした。イオンに片付けと品物の受け渡しだけ言いつけて、ルプはヴァシレの家へ向かう。
家に着くと、ヴァシレが横になっていた。近頃は、昼過ぎに帰らせている。机の上の食事は残されていて、ルプはそれを台所に片付ける。
寝ているようだったので、起こさないようにゆっくりと部屋を物色した。かつてルプが置いていたままに、書簡や新聞などが積まれている。
その中から役所関連の紙を片っ端から抜き取っていった。用を済ませてから、新聞紙を一枚手に取る。端を千切って裏に書き置きを残して、十クローネと一緒に机に置いた。
起こさないように家を出る。少し歩いてから緊張が切れたように息をついた。手元の紙に目を通すと、必要そうなのは大体揃っている。現住所についてのやり取りや、徴兵時の紙がある。
ルプはそのまま役所へ向かった。
一人で行くのは徴兵の時以来であった。このカンプルングでの居住は登録されていたのだが、行政上の情報として改めて身元確認が入ったのだ。そこで、今後もカンプルングにいるのなら、いずれ自治体への所属についても手続きをしておいた方がいいと言われていた。
当時のルプには難しい話であったため、言われたままを紙に書き留めていた。それによると、自治体というものは結婚にも関わる情報らしい。いざ結婚する時に、自分の問題で追い返されるわけにもいかない。自分の身元で結婚の手続きを進められるのか、必要な証明が揃っているのかを確認しておこうとしているのだ。
ルプは持ってきた紙を広げながら、係員に結婚の旨を伝える。
「十年ほど前から住んでいる記録があります。徴兵記録や、税、仕事の記録も残っています。結婚することになったので、何か問題はないか調べてほしいんです。」
係員は手元の資料に目を落として、ルプに尋ねる。
「ちなみに、出生については何かわかりますか。」
「いえ、何も。」
「宗派はありますか。」
「ありません。」
「そうですか。居住の登録と徴兵時の記録が残ってますね。自治体への所属についても申請できますよ。まずはこちらを整えておいた方がいいでしょう。宗派がないのであれば、婚姻はこちらで手続きできます。ただ一点だけ、お相手が教会に属しているか、確認しておいてください。」
ルプは喜んだ。必要な情報は揃っているとは思っていたものの、出生に関する空欄が気掛かりではあったのだ。特に追及されることなく進んだことに、随分と気が楽になった。
軽い足取りで役所を出て、真っ直ぐ家へ帰る。
「あら、今日は早めのご帰宅ね。」
ソフィアの母親が縫い仕事をしている。
「ええ。それと婚姻についてですが、手続きが済んだらすぐにでも、ソフィアと予定を合わせて行ってきます。」
これを聞いたソフィアの母親はご機嫌そうな表情で仕事を続けた。ルプも気分が良くなって、隠していたワインを部屋で飲むことにした。二か所に分けて隠していた自分の狡猾さを思って、余計に気分が良くなる。
机の上に持ってきた紙の束を置いた。婚姻の手続きを終えるまでは、まだ必要になるかもしれない。引き出しにはしまわずに、ワインに手をかける。
ソフィアが帰ってきて、部屋でワインを飲んでいるルプに文句を言う。ルプは笑って誤魔化して、ソフィアの分も注いでやった。
「今度、時間取れるかい。一緒に役所に行こう。」
ソフィアは大袈裟に喜び、グラスを手に取る。
「私たち、結婚するのね。ねえ、みんなにも言っていいかしら。」
甘えるような言い方が珍しくて、ルプは返事を渋っていた。今後もこんなソフィアが見られるのだとしたら、結婚することにしてよかったのかもしれないと思えた。
「その前に、君は宗派ってあるのかい。」
「ええ、母さんと同じよ。」
「俺には無いから、このままだと難しいみたいなんだ。」
ソフィアは少し考えてから、ワインを一口飲み込んでグラスを机に置く。
「それじゃあ、私が抜ければいいのかしら。母さんにも話さなくちゃね。」
「いいのかい、そんなに簡単に。」
「いいえ、でも結婚しない理由にはならないわ。」
九月半ば、二人は婚姻の手続きを済ませる。証人として、ソフィアの母親とイオンも役所に付き添った。
係員は二人の氏名や住所を順に確認し、それから互いに婚姻する意思があるかを尋ねた。ルプとソフィアは、それぞれ短く返事をする。
ソフィアは大喜びで舞い上がっているが、ルプはそれとは別に、淡白な手続きに拍子抜けしている。婚姻簿に二人の名前が並んでいるのを見た時こそ嬉しさはあったが、それで何か変わったという実感もない。その前も、きっとこれからもソフィアを好きでいられる。
周りだけが、結婚という手続きに浮かれている。やはり、役所は苦手だと感じられた。
結婚から二年という時間が過ぎて、生活には変化があった。
ソフィアが身籠ったのを機に、家の近くに新しい工房を構えた。出産の後も家の近くで働けるし、以前からルプ個人を訪ねてくる客も増えていて、独立するには悪くない時期だった。イオンも連れていこうかと考えたが、ヴァシレの世話もあるので元の作業小屋に残ることになった。イオンがそう言って断ったのだ。イオン一人でも大体の仕事はこなせるうえ、ヴァシレがいるなら心配はないはずだ。ルプが受けきれない仕事をたまに流してやることもあった。
仕事に追われながらも、家に帰れば安らぎがある。ソフィアと、その腹の子と、ソフィアの母親がルプを迎える。いまや金を稼いでいるのはルプだけであって、この家を支えるために仕事に追われるのならば、それは構わないと思えた。
家族か客か、たまにイオンか。ルプはそんな安定した暮らしを送っていた。
この冬一番の雪が降り積もり、人の往来も少ない日。ルプは久しぶりに仕事を早く切り上げて、露店へ向かう。早仕舞いする店もあったが、ちらほらと物を売っている店も見られる。最近は自分の買い物というのも減って、たまには何か買おうかと物色していた。
色々と見ていく中で、見慣れない上質そうな革の上着を見つける。厳しい寒さも相まって、余計に欲しくなった。少し奮発したが、それと新しい財布も買って、土産にクラムケーキを持って帰った。
家に帰ると、ソフィアが裁縫をしている。マフラーを編んでいるらしい。ルプと、これから生まれてくる子の分まで用意するそうだ。少し気が早いのではないかと思ったが、口には出さずに土産を渡す。
「まあ、露店のところのクラムケーキね。一緒に食べたの覚えてくれていたの。」
賑やかな空気に釣られて、奥の部屋からソフィアの母親が出てくる。彼女もまた、このクラムケーキが好物なのだ。
食後に食べようと、ソフィアの母親は張り切って夕食の準備に取り掛かる。
夕食を待ちながらソフィアの裁縫を眺めていると、急に玄関の扉が開いた。扉を叩く音もなく、振り返ると、吹き込んでくる雪の中にイオンがいた。一目で、急いでいる様子なのが分かった。誰も口を開くことなく何事かと困惑する中で、ソフィアが問いかける。
「どうかしたの。なんでそんなに怖い顔してるのよ。」
イオンは我に返った様子でソフィアを一瞥した後、家に入ってこないまま話す。
「ルプさん、少しいいですか。」
ルプは席を立ち、ルプとソフィアの寝室に招き入れる。イオンは何やら渋るようであったが、雪の中で話すわけにもいかず、無理やり連れ込んだ。
「ヴァシレさんが、亡くなりました。」
ずっと疎遠になっていたヴァシレのこと、それも亡くなったという報告を受け止めきれずに、口を開いたまま何も言えなかった。
「仕事終わりに食事を用意しに行って、なかなか起きてこないと思っていたら。」
イオンはそこで俯き、互いに黙ったまま時間だけが流れた。
ルプはただヴァシレのことを思い出している。
ヴァシレが、ルプと呼んだこと。仕事を教わり、飯をもらったこと。安楽椅子。新聞紙の山。最近は元気に暮らせていたのだろうか。それとも、苦しい日々の中で今日を迎えたのか。最後に話したのはいつだったか。あの書き置きは読んだのだろうか。
イオンを帰した後、ルプは夕食を断って部屋に篭った。ヴァシレと出会った頃からを思い返す。ぼろぼろの自分を迎えてくれたヴァシレの面影が、朧げに浮かぶ。自分は森を彷徨っていた気がする。そして、あの作業小屋を見つけたのだ。森で何をしていたのだろうか。そんなことも分からないまま、ヴァシレに育てられた。そして、知らないところでヴァシレは死んだ。もう会って話すことはできない。
隣の部屋からは二人の話し声が聞こえる。声を潜めて、何か話しているのが分かる。それ以外に音のない暗い部屋で、ルプはじっと座ったままであった。
薄く残った雪には、まばらに足跡が付けられている。所々に地面が見えかけていて、ルプはどれだけの人がここを通ったか考えた。
葬儀では昔からの馴染みの客や、ヴァシレの近所の人間もいた。故人について会話を交わすほど、ここ数年のヴァシレについて何も知らなかったと感じて、いたたまれない気持ちになる。彼らとの会話が久しぶりに感じられたことも、ルプの胸を締め付けた。
埋葬に立ち会うとき、横にはソフィアとイオンがいた。イオンとは葬儀の後、仕事について軽く話した。作業小屋はあのまま使用する予定らしい。ヴァシレの家については決めかねるので、また今度話し合う。
家に帰るまで、ソフィアとは一言も話さないままだ。翌日になるまで、互いの会話にはぎこちなさが残った。
第四章
まだ寒さの残る春先、ルプとイオンはカンプルング郊外の森に出向いている。山小屋の修繕を依頼されたルプは人手が欲しかったので、イオンを同行させたのだ。
ルプはいつも森に入ると、言葉にしがたい感覚があった。それは馴染みのあるような温度の、それでいて中身のない空洞の感覚である。触れようにも触れられない。それについてよく考えてみることもできない、些細だが気になるしこりがいつでもあった。
二人が他愛もない世間話をしていると、ルプは森の奥の方で動く影を見つけた。獣の群れらしい。イオンはまだ気が付いていない様子である。
「イオン、止まって。あれは何だろう。」
イオンは息を殺して、よく目を凝らしてみる。それから、ルプに囁く。
「あれ、狼の群れですよ。あんまり刺激しないように気を付けてくださいね。」
ルプは息を呑んだ。
「まさか、俺たちのことを狙っているんじゃないよな。」
心配とは裏腹に、その群れはすぐに去っていった。イオンは、あんなに遠くにいたのに怖がりすぎだと笑っている。ルプは気を悪くして、歩く速度を速めて山小屋へ向かった。
作業を進めながら、ルプは何かが気になっている。あの狼たちのことであった。狼を見たのは初めてではないはず。確かに恐怖を感じていたかもしれないが、身の危険だとか、そういうことではなかった。あれを思い返していると、妙な不快感が残る。狼たちに対してだろうか。それとも、イオンに対してか。
またしても形容しがたい感情を引きずったまま、手だけは止めずにいた。
家に帰って、ソフィアに数日家を空けることを伝える。イオンと山小屋の修繕をするため、ヴァシレの家に寝泊まりすることにしたのだ。
「そう、わかったわ。森に入るのなら気を付けるのよ。」
「大丈夫だよ、心配いらない。それとね、今日は狼がいたんだよ。君は見たことあるかい。」
「ないわ。そんなこと聞いたら心配になるじゃない。本当に気を付けてよ。」
少し怖がらせてやろうと、その時の様子を説明しようとした。しかし、記憶が曖昧で話が膨らまない。そういえば、狼を見たのも今日が初めてだったかもしれない。それで適当に誇張して話してみたが、すぐに嘘だと見破られてしまった。狼に出会ったことさえ疑われて、小さな言い合いにまでなってしまったことをルプは後悔した。
「イオンに教えてもらったんだけど、森の中に日当たりのいい場所があるんだよ。白い岩が一つだけあるんだ、俺も見たよ。景色のいいところだった。これは本当さ、イオンに聞いてみてもいい。その子が生まれたら、一緒に行ってみたいな。」
ソフィアの表情はたちまち柔らかくなる。
「ええ、いいわね。お母さんも一緒に、四人でお出かけね。」
その日の夜、ベッドに横になった二人は我が子について話している。
「夏が始まる前には生まれてくるそうよ。」
「遂に生まれるのか。楽しみだね。」
「ねえ、この子の名前、あなたが決めてくれないかしら。そうしてくれたら、私嬉しいわ。」
ソフィアはルプの手を取って、自分の腹に押しやった。数日前に比べて、さらに大きくなっているようだ。動いているのも分かる。
「俺が決めるのかい。そうだな、どうしようかな。」
「男の子と女の子、両方考えておいて。決まったら教えてね。」
そこでルプは一晩中考えてしまって、寝不足のまま仕事に出ることとなった。
四日間、山小屋を往復する日々の中でもルプは頭を悩ませる。
自分の知っている名前を一通り挙げてみた。それらとは別に、自分で新しい名前を考えてみようとするが、どうにも思い浮かばない。名前の付け方がまるで分からず、イオンに相談してみても決めるまでには至らなかった。
山小屋の仕事が片付いて、撤収作業を済ませる。
「ルプさんと一緒に仕事したのは何年ぶりでしたかね。さすが、カンプルング一番の木工職人です。僕もまだまだ半人前だ。」
そう言いながら笑っているイオンの顔が懐かしかった。
「俺は二番だよ。それで、イオンは三番目だ。」
こういうことを言うと、イオンは弱い。急に言葉に詰まって照れる。
「そうだ、ちょっと寄っていくところがあるから先に帰ってくれ。荷物はヴァシレの家に置いてくれたら、後で回収しておくから。」
イオンは見当もつかないようで、聞き返す。
「こんな森の中で、どこに寄って帰るって言うんですか。まだ昼過ぎですけど、場所によっては暗くて危ないですよ。」
「ほら、この前イオンが言っていた石鹸岩あるだろう。あそこなら林道も近いし、ちょっと気になるから行ってみたいんだ。」
ルプは通りすがりに見ただけであったが、石鹸岩と呼ばれているらしい岩に見覚えがあるような気がしていた。イオンが言うには、よく獣が身体を擦っていくらしい。それに白っぽい色味であるから、石鹸岩だそうだ。林道を使っている人間には馴染みの岩らしい。
暗い林道の中では目立つ、陽の差し込む空間の中央にぽつりとその岩がある。山小屋との往復で通るたびに、そこが気になっていた。
生まれてくる子供とそこへ訪れる想像をする。それで何か思い浮かべばいいし、思い浮かばなくても、やはり気になるので行ってみたいのであった。
イオンと分かれて、ルプは一人であの開けた空間に足を運ぶ。
遠くで見るより、石鹸岩と呼ばれる白い岩が陽の光に反射して鈍く光っているように見える。まるでその岩のためにある空間のようで、触ってみたくなる。ルプは獣たちの気持ちが少し分かったように感じた。どこにでもあるような目新しさもない岩が、やけに気に入ってしまった。
岩にもたれかかるようにして腰を下ろす。確かにこうして背中を押し当ててみると、気持ちがいいかもしれない。この感触も景色も、何だか覚えがある。確信することはできないが、その感覚は確かだ。
こういうところを駆けていたり、そういえば昔は周りに狼たちがいたかもしれない。獣のように生きていたような、そんな過去があったような。
もしかすると、自分は親に捨てられたのだろうか。昔に誰か、自分の名前を呼んだ人がいた。どんな人だったか。
その時、藪の奥の方から気配を感じた。ルプは驚いて立ち上がる。森は暗くて先までは見通せないが、何もいない。注意深く観察する。しかし、何も見つけられなかった。
しばらく立ったまま、ぼうっと森の中を見つめている。そのうちルプは、服を叩いて石鹸岩を後にした。
「おかえりなさい、さっきイオンが来たわ。先に下見に行ったのね。どうだった。」
「ああ。やっぱりいい景色のところだった。それと、名前も決めたよ。」
ソフィアはそれを聞くと、穏やかな笑顔で頷いた。
ルプは横になっている。腰が痛くなって寝返りを打とうとするが、思ったように身体が持ち上がらない。近くにいた女が急いでやってきて、それを手伝う。そして、女はルプの傍に座って囁いた。
「無理はしないでね。寝てればいいから。」
ルプは薄らと目を開けて、小さく口を開く。
「イレアナ。」
女が微笑んでルプの額を撫でると、ルプはそのまま目を閉じた。女の手は、しばらく額を撫でていた。
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