安心を予約する

矛盾のようにみえますが、人は疑うことで安心を確保します。

なぜ、疑うのか。
人を疑うことによって、どう結果が変わるのか考えてみましょう。

例えば、表向きは好意の言葉を投げかけてくれる人に対して、その裏では自分の悪口を言ってるかもしれない、と疑う人がいるとします。そして、その裏の姿を知ってしまったとき、「ああ、やっぱりな」と思うのでしょう。

この場合、自分の中での相手への評価というのは、裏を知る前と後ではほとんど変わっていません。ずっと、「悪口を言っているのだろう」という評価のままです。
これに対して、相手の言葉のままに考えていた場合、評価が正反対へと覆ってしまうのです。「好かれている」から「嫌われている」へと、自分の評価が裏切られてしまうわけです。こちらの方が、心理的なショックが大きいので、人はこれを嫌って疑うことを選ぶのでしょう。

つまり、人が疑うということは自己防衛の策なのです。
他人に対して常に隔たりを設けることで、やがて訪れるかもしれない衝撃を緩和するという目的があるのです。穏やかな生活を達成するために、これは自然な戦略の一つだと思います。

ただ、この安心を予約しておく行為には欠点があります。
それは、その安心の正体はあくまでも予約であるということ。そして、常に疑うというストレスがセットであるということです。

多くの人は疑うことで安心を得られる、と短絡的に考えてしまっています。
しかし、その効果が得られるのは裏切りがあって、かつ、それが発覚した場合なのです。そのとき初めて緩衝材の役割を果たしてくれます。

疑うことで得られるものは、「安心を確保してある」という安心なのです。本当に求めているものは、予約しただけの不確定なものなのです。

さらには、大きな悲しみを避けるために、常に小さく悲しんでいなければならない、という事実もあります。疑うという行為は、人との間に隔たりを作るものであるからです。

こうして考えてみると、僕にとって疑うことは偽物の安心を作り出すことだと思うのです。
本来、安らかな心というのは対人関係の中から生まれてくるものです。誰かが自分自身を認めてくれることで、安心が得られるのです。

一人きりがいいや、というのは安心するからというよりも、それが楽だからなのではないでしょうか。自分を傷つける誰かが存在しない状態であるだけで、自分を安心させてくれる誰かも存在していないのです。

できることなら、疑うことこそ避けるべきなのだと思います。しかし、現実的に考えて完全にそれが叶うわけでもありません。
そこで、僕にできることは捉え方を変えてやる、ということです。

疑わざるを得ない問題の多くが生じるのは、自分が考えている相手の表裏と、実際の表裏が違っていた場合であります。
ここで、相手の裏の側面について考えることは杞憂なのです。
そもそも他人の胸の内を完全に知ることはできません。そして、その胸の内に期待するがために、裏切りにショックを受けるのです。

裏の顔を持つということは誰にでもある話です。ということは、自分には分からない顔を相手が持っているのは当然のことであり、何か不安に思うようなことではないのです。

さらに、仮に相手が裏で自分のことを悪く言っていたとしても、表向きは好意を持って接してくれているのなら、それが自分に対しての気持ちだと受け取るべきなのです。実態が違っていたとしても、相手は自分に対してそういう気持ちで向き合うことを選んでいるのです。であれば、自分もそれを汲んで付き合っていけばいいのです。むしろ、そこを疑うことこそ相手に対する裏切りとなります。

自己完結できる手っ取り早い方法ではありますが、疑うことは自分と相手に対して不誠実な選択であります。
まずは最も身近なところから、上辺の関係を信じるという人間関係の進め方をしてみるのはどうでしょうか。

人は、人が思うほど綺麗なものではないのです。
僕はその事実を受け入れ、人を信じることで本当の安心を得ていく道を選びます。

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