破壊と創造。
特に創作活動に励む人間であれば、この対は嫌というほど聞くと思います。僕もそのうちの一人で、過去には音楽を、今はこうして文章を書きながら、何気なくこの言葉が脳によぎるのです。
しかし、この言葉を並列に扱っていいものなのか。
ここはよく考えるべきだと思います。
自分を表現するために、アートをやっています、という人がいたとします。続けて、常識を打ち破り、劇的に見せつけてやりたいのです、と言います。
これらは、創造するために破壊しているのです。多くの芸術家は、こちらではないでしょうか。
もちろんこの逆も然りで、今の音楽シーンは気に食わない、という人が作り手に回ることがあれば、これは破壊のための創造になります。
破壊と創造とは、両者は付き物であるという文脈にはなり得ますが、並列に考えるべきではないのではありませんか。
さて、引き剥がすことのできない関係の二つにも順番があるのならば、芸術家にはそれらをきちんと把握しておく必要が出てきます。
目的と手段、いまやっていることは何なのか。常々、彼らを悩ませる議題の一つです。
そして、創造のための破壊について、さらに悩みの種となるような問いかけを残したいと思います。
それは、気付かぬうちに破壊と創造がすり替わっていないか、ということです。
破壊の対象は常識やシーンといった、外側にだけあるのではありません。自分が生み出したものも、その対象となり得ます。
そして僕自身、文章を書きながら思うのです。
もう完成していたかもしれない稿を、ぐだぐだと書き散らかしてはいないか、と。
既に書き上がったものに対して、後から推敲し、改良していく作業は楽しいです。上手い言い回しになったな。読みやすくなって離脱箇所が減ったな。作品を届ける上では必要なことだと思います。
しかし、さっきまでは創造だったはずなのに、その気分のまま破壊へシフトしている可能性がここに潜んでいるのです。校正の範疇であればいいでしょう。それを踏み越えて、いや、これは違うぞ、と文章を破壊してはいないでしょうか。
もちろん、これを咎めているのではありません。
ただ、そこはもう破壊の領域であると認識していますか、という問いかけなのです。
創造を終えた以上、作品と繋がれていた書き手という立場を、僕は降りなければいけません。
あとからいつでも作品を編集する権限はありますが、それは完成した作品の内側に居続けられるということではありません。完成とは不可逆的なもので、僕は読み手と同じ外側から手を加えることになるのです。
ある楽曲を作者自身がアレンジして再発表したとき、アレンジ版の方が作品として正しいのでしょうか。
どちらも、固有の作品なのです。元の楽曲は創造の成果として、アレンジ版はそれを破壊した成果として完成されるのです。
ですから、いずれにせよ作品にはなり得ますが、自覚はすべきなのです。いつまでも、創造している気にならないように。
どこまでが創造で、どこからが破壊になるか。
これを一概には言えないのが無責任ではありますが、結果として創造後の破壊を楽しむのもアリだと思います。自分の作品の一ファンとして、さらには作者という身分の特権として、散々に作品を破壊して楽しんだ後で、それを発信したっていいでしょう。既に楽しまれた後のお下がりで、誰かが楽しむのを眺めるということは、悦なことかもしれません。
風止場でもそういったことをしているかもしれませんが、これを明かす義務はないので、ここまでとします。
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