あれこれ思索に耽るとき、しばしば博愛主義者のように気取ってしまう僕でも、どうしても嫌ってしまうことが2つあります。
”邪魔”と”理不尽”です。冒頭からネガティブですみませんが、今日はこの内、”理不尽”について少し考えてみました。
例えばの話ですが、ある朝に散歩をしていると民家の窓から、いかにもクレーマーな感じの人が顔を出してきます。その人が言うには、「窓から眺める朝焼けが、あなたみたいなのが横切ったせいで台無しだ」とのことです。
これは”理不尽”でしょうか。もしそう感じるなら、どの点においてそう感じるのでしょうか。そもそも”理不尽”とはどういった状況を指すのでしょうか。
まず、僕にとって”理不尽”ということは、納得ができないことであります。
クレーマーの言い分を聞いた人の多くは、なぜ怒られるのか納得できないと考えるのでしょう。確かにその意見も頷けます。私有地でもないのなら、道を通ることについて怒られる理由はないと思うでしょう。
しかし、僕にとって納得ができないというのは、理由が見えないという状態なのです。先ほどの例において、理由は確かにあるのです。怒る理由は単純で、景観が損なわれて気分を害したからです。
ここで相手に自分を重ねて、その思考回路はおかしいと突っぱねてはいけません。
所詮、人は人です。その腹の内は知り得ませんし、知ったところで本当に理解するのは至難です。
一連の感情が生まれる流れを認めることで、次の段階に進むことが出来ます。お互いの道理を打ち合うということです。
お互いが何に対して、何を思い、何を求めるのか。それが明白に打ち明けられることで、共存できない点がどこにあるのかが見えてきます。この順序を乱してしまうと、解決すべき箇所に目が行きづらくなってしまいます。余計に”理不尽”が加速していくのです。
僕が納得できないと感じてしまうときとは、出来事から行動までの過程である、心理状態が明らかになっていない状態なのです。どんなに我儘で、どんなに突拍子もない説明でも僕はそれを欲してしまうのです。
なぜなら、僕は全てのことに対して説明ができる状態でありたいと望むからです。
人生が選択の連続である、ということは誰もが言っています。僕はその選択に自信を持っていたいのです。連続している以上、全てに対してです。今までどんな時間を過ごして、どんな景色を見てその選択に至ったのか。説明できるということで、選択に信憑性を裏打ちするのです。
だから、僕は納得できない”理不尽”が大嫌いなのです。
そのために、もっと世界に吹く風を知りたいと思うのです。
息を吹き込む