かいじゅうと花束は、ちゃんと生きる|『とぅいんくる☆ぱらだいす』

先日、『かいじゅうと花束』というバンドの名前が、目に止まりました。

恐怖の象徴と、愛の象徴。
かと思えば、「かいじゅう」という文字を実際に眺めると、こんなに可愛らしいものなのかと、つい気になってしまったのです。メルヒェンチックな字面に誘われ、蓋を開けてみました。

「とぅいんくる☆ぱらだいす」という曲を聴きました。

イントロが流れて、これは僕の偏見のみでの感触ですが、このメロディは完全に“許し”を体現したものだと思いました。
楽しいメロディや、悲しいメロディがあるように、メロディそのものへのイメージというのが大まかにあります。そして、僕にはこのイントロが“許し”に聴こえたのです。
この視点をもって、歌詞についても触れていきます。

Aメロでは関連性のあるような、ないような、とにかく頭に浮かんだものを小気味よく羅列したような詩が歌われています。
言葉を掴もうとしても、逃げられる。そんな感覚で、この時点ではただ、言葉の景色を眺めることしかできませんでした。

ところが、Bメロになると意味が少し前に出てきます。
「現実逃避」、「理想と現実の乖離」が仄めかされていて、それまでと足取りが変わります。このあたりから薄々と、さっきまでの雰囲気はまさに理想郷、「ぱらだいす」の中身だったのではないか、と感じるようになります。
何を考える必要もなく、ただ自然に浮かんでくる景色の中にいる。意味や関連性なんて、そこには必要ありません。
そんな自分のためだけの個人的な世界は、他者の介入によって、いとも簡単に破られました。
誰かの急かす声が差し込んできて、サビが始まるのです。

ここからは、はっきりとした強い主張が歌われています。
人として当然、と言われるような社会からの要求に、「むり!」という拒絶を明確に示すのです。そのうえ、「だれになんていわれたって」ということは、説得の余地も与えていないのです。
つまり、社会的に当たり前の物差しの一切を捨てて、主観だけで人生を選び直そう、という歌詞になっているのです。

このように個人的な内側の描写から、自己と他者(世界)との衝突へと歌詞は進んでいきます。そして、曖昧だったものはどんどんと輪郭を帯びて、明確な主張へと変わっていきます。

それでは初めに触れた“許し”とは、何のことだったのでしょうか。

安直に考えれば、人並みのことも叶わない自分への許しでしょう。もしくは、独りよがりに「ぱらだいす」へと逃げ込むことへの許しともとれます。

しかし、僕がイントロで感じた“許し”とは、諦念と前進を決意するような“許し”なのでした。

当たり前ができない、と諦めるわけではないのです。そう諦めることを、諦めるのです。
自分の世界に完全に閉じこもっているようで、実は現実というものを認識していて、誰かの声も確かに届いています。この社会を生きようという気持ちは、少なからずあるのです。
サビにおいて、行き過ぎなほどの拒絶を歌いますが、本当にそう生きていこうという決意には感じませんでした。ただ本音をぶちまけただけであって、これは世界との仲直りの手順のように感じました。歌として打ち明けることで、あとは、変わらない世界を許してやるのです。
そんなことは一言も歌われていませんが、そんな感情が聴こえてきたのです。

歌とは所詮、歌なのです。
社会的な声明や宣誓とは、違います。

拒絶を歌っただけ。
ただそれだけで、その通り消極的に人生を歩むわけではない。

それでも、そう歌ってやることで自分や誰かに、前向きな決心をもたらすこともあるのではないでしょうか。
きっとこんな世界の中でも、『かいじゅうと花束』は、ちゃんと生きているのでしょう。

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