日々、思ったり感じたりしたことを言葉にしています。
こういう売り文句はたくさんあって、それが何か素敵なことだと思えてしまいます。
しかし、果たして本当にそうかと言われると、待ったを掛けたくなるのです。
言語化できる人は観察力や語彙、論理的思考能力に長けているので、それが凄いというのは分かります。それはその人の長所たり得ます。
憧れてしまうのも分かります。言語化できない故に悩みも消えなくて、そういうふうに自分もなりたい、とエッセイやらを読み漁るのでしょう。
ただ、言語化しないでも素敵な生き方だってあると思うのです。
言語化するというのは、そうしないと生きるのが難しいからであって、言葉になんてしなくとも十分に人生を堪能できるのならば、僕はそっちの方が綺麗に見えるのです。
綺麗だな、と言葉にしてみて、僕がそちらへ出向く気配はこれっぽっちもありません。
どれかを否定せず、誘導することもせず、安全圏から口を挟むしかできない僕のやり口では、そのどれにも参加できていません。
ただ言葉に残していくだけ。
その情報の参照元はこの世界で、そこに参加しているはずなのに、観測者の立場へ逃げてしまう。
ある意味で、不誠実な手口を選んでいるのかもしれません。
ただ、それを不誠実と呼んでいいのか、観測者の僕にはうまく判断できません。
僕は届かない声を渦中にひたすら投げかけるわけですが、こんな僕のやり口に対しても誰かの声が投げかけられているのかもしれません。
まるで次元の構造のように、当たり前に俯瞰して、当たり前に気が付かないのです。
これに気が付くことが成長なのか、そうとも言えないような気がする、としか今の僕には言えません。
息を吹き込む