朝と夜、脱却と回帰

朝は、目覚める時間です。
活動を始めて、人と出会う時間です。

夜は、眠る時間です。
よく考えて、自分を探す時間です。

なぜ、人はそのように生きることを選ぶのでしょうか。

前提として二点、了承しておくべきことがあります。
一つは、いつでも意味を与えるのは人間だということです。太陽や月が「おはよう」、「おやすみ」と僕たちにいうわけではありません。朝と夜という時間の割り振りをしたのは人間の勝手であります。
そして、僕はここで生存条件としての意味を問うているわけではありません。そうすることが生存に直結していた、ということはさておいて、では、今を生きる僕たちにとっての意味を探してみよう、というのが本記事の試みになります。

昔であれば、朝のほうが日が昇ってきて明るいので、活動しやすかったはずです。みんなが外へ出て来れば、社会的な活動が可能になります。朝に起きることは、とても合理的な判断と言えます。
しかし、現代では夜でも明るい場所は多いですし、実際に夜に活動する人もかなりの数いるでしょう。だとすると、一概に朝に起きるべきだとも言えないような気がしてきます。

明かりの発明というのは、自然克服的な文脈でよく語られると思いますが、まさにそのように変化が起きていると思います。
ここで僕が考えるのは、人間は本当に自然を克服していっているのか、ということです。

暗い夜も、厳しい寒さも。確かに僕たちは既に乗り越える術を持っています。しかし、本当の意味で自然を打ち負かすのであれば、ずっと春の昼過ぎにしておいてほしいものです。その方がよっぽど過ごしやすく感じてしまいます。
もちろん、現実には自然界を丸ごとそんな状態へ変えているわけではありません。少なくとも僕らの日常で行われているのは、自然そのものを変えることよりも、その影響を受けずに済む場所を作ることです。

夜は暗いままで、明るい場所を作ろう。
冬は寒いままで、暖かい場所を作ろう。

自然の脅威を無くすよりも、遠ざける方向へ進んできたのだと思います。これはやはり、克服ではないのではないでしょうか。
僕はこれを、脱却と考えます。

つまり、昔は自然に従って生きることを前提に合理的な生活を営んでいたわけですが、人工的に生活を組み立てることが可能になった現代では、自然の枠組みは不要になってきているということです。
太陽の昇降という生活の合図は、役目を失いつつあります。電気の点滅で十分なのです。

ここで冒頭の問いに戻ります。
人それぞれに朝と夜を用意できるところまで進化しているのに、いまだに太陽の昇降に沿って作られた朝と夜に従う人だらけです。そのうえ、早寝早起きのような生活習慣を推奨します。
これだけ自然から脱却を進めてきたのに対して、逆行的な反応だとは思いませんか。

要するに、生活を自然から脱却させることはできても、人間そのものは自然から逸脱しきれない、ということではないでしょうか。
どれだけ自然へ介入できるようになったとしても、僕らの体は所詮ヒトなのです。

ただ、きっとそれだけではありません。どんなに部屋を明るくしても、電気を点けた瞬間に、僕が朝を迎えたような気持ちになるわけではありません。そもそも、朝と夜というものに意味を与えたのは人間です。それでも、その意味を自然から完全に切り離して作り直そうとはしませんでした。

太陽が昇ることを始まりとして、暗くなることを終わりとして、いまだに僕たちは朝と夜を作り続けています。朝と夜というものは、単純な明暗だけの話ではないのだと思います。

朝には自分を太陽のもとに晒し出して、夜は暗がりの中で自分を見つめる。

自然から離れようと思えば、いくらでも離れられる生活の中で、それでも僕は、太陽のある朝と暗い夜を選んでいます。

僕にも、たしかにこういう感覚があるのです。

風止場管理人

風を読み、言葉を紡ぐ。
思考と感覚の記録を残すための“風止場”を運営しています。
管理人について、は下のリンクから↓


風止場の続きを追う

Xでは、記事になる前の問いや景色などを発信しています。
RSSでは、新しい記事の更新を受け取れます。


息を吹き込む

コメントする

目次