最近、人から指摘されて気付いたことがあります。
僕は、誰かの悪口や不謹慎な妄想でよく笑うようなのです。
実際、思い返してみればそうかもしれません。
あの人は下品な人だから、きっと今はこんなことを考えているに違いない。
急にあの子犬を蹴り飛ばしたら、みんなどんな反応するだろう。
そういうありもしないことを言ってみるということ、これを面白いと考えてしまっている気がします。
こう冷静に考えさせられると、かなり不愉快な人間だと自分でも思います。
しかし、これは本意ではありません。別に僕は誰かを嫌っていたり、傷付いてほしかったりするわけではないのです。
だから僕は悪くない、ということではありません。
こんな恥ずべき言動を、なぜ本心でもないのに言ってしまえるのか。自分でも気になってしまったのです。
まず、本意ではありません、というところについて。
誰かのできないことを馬鹿にするように話して笑っているのですが、僕自身、その誰かの弱みがいけないことだとは全く思っていないのです。いや、無意識にそう考えていることを否定する術は僕にはないのですが、それでも故意ではないことは言えます。
それに、不謹慎なことだって実行する気はないですし、起こってほしいとも思っていません。
つまり、僕が笑いのタネとしていることとは、大体が虚言なのです。
僕の本心とは、遠いところにあることを口にして笑っているのだと思います。
そして、この虚言を発するときは大抵、人を選ぶのです。
誰にでも言うようであれば、多くの批判を一身に受けることになり、僕の周りには誰もいなくなっているのでしょう。そうではなくて、僕はより身近な相手に対してこういった言葉を持ちかけるのです。
それは、その一言だけで僕を判断しないであろう人です。
虚言が虚言であることを理解して、僕の本心がもっと別のところにあることを理解してくれていそうな相手に対してのみ、僕はありもしないことを言って笑うのです。
ではさらに踏み込んで、僕はそういった虚言をただ面白いから言うのでしょうか。
実際に僕はそういう話題を面白いと感じているのかもしれませんが、この会話にはもっと重要な役割があるのだと思います。
それが、本意ではないことを理解してくれるかの確認です。
僕のこの冗談が通じる相手であれば、僕のことを理解してくれているように思えます。それまで曖昧で躊躇いのあった人間関係の深度を測ることで、僕は気を許すことができるようになるのです。
このように徐々に危うい発言を交わしていくことで、互いの理解度を確認するチキンレースでもしている気になっていたのでしょう。これは相手と競い合うことが目的ではありません。ギリギリまでいってみても崖から落ちなかった、というスリルと安心の駆け引きが、僕の虚言の実態であったのです。
このとき、崖から落ちてしまうというケースも出てきます。
危険すぎる言葉に、相手が引いてしまうのです。
僕がこういった場合にどう考えるのかというと、相手は思うほど自分を理解していなかった、となるのです。このやり取りの目的は理解度の確認でしたから、これを相手の理解不足に繋げて考えてしまうのです。
よく考えてみれば、冗談だとしても言うべきではない言葉もありますし、一概に相手に要因を押し付けるのはかなり自分勝手な判断に思えます。
さらには、相手はこれが関係の深度測定という意図がある冗談だとは知りません。僕が勝手に始めて、勝手に判断していることだからです。これはますます相手にとっては不利な条件になっていて、都合のいいチキンレースであることがわかります。
しかし、不公平で身勝手な検証だとしても、僕は冗談だとわかってほしいのです。
いま出会ったばかりの仲ではないのです。
過去にさまざまな会話を経て、お互いに胸の内を共有し合ってきた時間があるわけです。それがありながら、たったの一言が優先されてしまうのは寂しいと思うのです。
だから、身勝手だとわかっていながらも、ちゃんと理解してほしいという欲求は止められないのです。
こうして自分の言動について書いてみると、見えていなかった可能性が見えてくることがあります。冗談として処理されなかったとしても、それは必ずしも理解の不足を意味しない、ということです。
僕の本心ではないと理解していても、それを冗談として受け取ることはできない、という人はきっといたはずです。これは理解していないのではなくて、許容していないのです。
僕が今まで求めてしまっていたのは、理解と許容だったわけです。本当は理解を求めて、確認したかっただけなのに、そこに許容も混ぜて求めてしまっていたのです。
すると、相手が僕を理解していないのだと感じたときに、実は僕の方が相手を理解できていなかったということもあるのかもしれません。本当は許容していなかっただけなのに、僕はそれを理解していないのだと誤読していたかもしれません。
だとすると、これはまず僕の方が相手を理解していることが前提となってきます。
どこまで許容できる人なのか、そこがわかっていなければ、また理解と許容を混同してしまうことになり得ます。
チキンレースと称して相手の理解を試す一方で、実は僕の理解不足が露呈していたということもあったかもしれないのです。
これを書いていて、僕はこのよくないコミュニケーションの形を自省するわけではありません。今後もきっと、そうした話題で笑っているのだと思います。
無関係な誰かが傷付きかねない言動を用いて、自分のことをわかってほしいと求め続けるでしょう。
その理解度の測定の精度が、少し上がっただけの考え事でした。
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